約束の祈り16(最終話)
長い長い光の河を流されていくような感じだった。
重力はまるで感じなくて、自分の存在さえもあやふやになっていくようなそんな気がした。
亘は光の波に流されながら、自分の脳裏にさまざまな過去の記憶が浮かぶのを感じた。
──幼い頃の自分・・・成長して、父や母と手を繋ぎながら歩いてる自分・・・
──小学校に入学して、カッちゃんとキャッチボールをして遊んでいる自分・・・
・・・そして、5年生になって幽霊ビルを探検して大騒ぎして・・・そこで・・
──・・・・そこで
(美鶴・・・)
月明かりの下、とてつもなく悲しい表情を浮かべた彼に初めて出会った。
亘はそのとき思ったのだ。こんなに綺麗で、こんなに悲しい瞳をした人間は見たことが無い・・・と。
こんな悲しい目をした人間がこの世に存在するのを・・・初めて・・知ったのだ。
(お人好しは引っ込んでろ!)
(お前に俺の何がわかるんだよ)
美鶴の発したその言葉の一つ一つを亘は全て覚えてる。
辛い、悲しい、自分ではどうすることも出来ない感情を抱えていた美鶴の苦しい表情の全てを覚えている。そして、それを救ってやることも、受け止めてやることも・・・・ただ共に歩むことさえしてやれなかった自分の後悔を。
・・・・自分の腕の中でどうすることも出来ずに、消えていく美鶴の姿と共に・・忘れることは無かった。
(美鶴・・・美鶴・・)
いっしょにかえろういっしょにかえろういっしょにかえろう・・・・
だから。
だから。
だから再び出会った時。もう、離れないと思った。もう、離さないと思った。
美鶴を決して一人にしないと・・・誓った・・。
亘は光の波に流されながら、両手を広げてその光をすくい、深く目を閉じ自分の胸の中に抱きしめた。逃したくないというように。
抱きしめた光の中に、閉じたままの瞳から流れ落ちた涙の雫が煌いた。無数の星が呼応して輝くように。
(亘・・・)
綺麗な綺麗な美鶴の笑顔。見たこともないほど綺麗な君の笑顔。
掴んだ手と共に。呼び合った名前と共に。抱きしめあったお互いと共に。大切な大切な約束の言葉と共に。
(ただいま・・・亘・・)
無限の星が煌くように亘の周りを光が取り巻いていた。自分の体が今度は静かに落下していくのを感じながら、亘はその言葉を呟いた。
「お帰り・・・美鶴・・」
自分の頬を伝う暖かいぬくもりを感じながらそっと呟いていた。
気がつけば、初めてヴィジョンの女神と会った運命の塔に亘は立っていた。──あの時の姿をして。
11歳の自分。父が家を出て行って、家族が崩壊するのを何とか変えたくて。自分の運命を変えたくて。
・・・・美鶴の後を追いかけて運命の扉をくぐった自分。
──見習勇者の姿をした11歳の自分に。
亘はそっと歩を進めた。
天を見上げると白い光の幕が棚引いていた。──大いなる光の境界──ハルネラで選ばれたヒト柱の命のエネルギーによって引かれた光。ヴィジョンを守るための清い千年の光。・・・・孤独だけを友に千年の時を過ごさねばならない者の魂の輝き。
亘は一歩一歩を確かめるようにゆっくりと歩みを進めた。深く目を閉じて胸に手を当て、祈るように。
その瞳にもう、涙は無かった。ただ、深い願いを。望みを持った人間がそれを叶えてもらうためなら、どんな犠牲も厭わないと誓ってる顔。冥王に会うことさえ躊躇わないだろうという顔。
いま、11歳の亘はそんな何よりも強い表情をたたえて、歩いていた。
そして聞こえていた。深く目を閉じながら見えていた。美鶴の声。美鶴の姿が。
(三谷)
(友達なんか要らない。俺は一人でいい)
亘が始めて「くん」をとって、「芦川」と呼び捨てにした時のきょとんとした顔。
(大丈夫だって言ってるのに・・お前って本とにお人好しだな)
初めて触れ合った時のぬくもり。初めてお互いを間近で見た時の躊躇い。
迷子の子供のような、捨てられた子供のような瞳をしていた美鶴を抱きしめた亘を驚愕の瞳で見つめた美鶴。
離れないと言った亘を泣きそうな顔で見つめた美鶴。
(亘)
亘は静かに目を開けた。いつの間にかもう、塔の頂上まで来ていた。頂上の一番上に小さな姿が見えた。
黒いローブを纏って、杖を持つ一人の姿が見えた。
(ワタル・・・)
その姿はゆっくりこちらを振り返る。風が凪いで時が止まったかのようなその空間でその姿は、ゆっくりゆっくり亘の方を振り返る。
振り返ったその顔に見たことも無いような、優しい優しい眼差しを浮かべて。
「ワタル」
魔道士の姿をした11歳の美鶴がそこにいた。美鶴は微笑みながらふわりと浮かび上がると、そのまま空に浮きながら亘にそっと手を伸ばしてきた。亘は思わず、その手を取ると自分の体も空に浮くのを感じた。美鶴は亘の肩に手をやり、支えながら囁いた。
「おいで」
高く高く光の幕に届くのではないかというような天高く、二人は舞い上がっていった。
美鶴は杖で先を指し示しながら呟いた。
「見てごらん」
白い白い雲の下。深い緑の森が見えた。生き生きと葉を茂らせ、無数の生き物の命を育ませる広大な森の姿。
すぐ傍にはキラキラと太陽の光を受け、川面を光らせて流れている大きな川もある。そしてそこにはたくさんの生き物たちが集っていた。輝くようにその生を謳歌させていた。
美鶴がクイッと顎をしゃくったその先に人々が集う大きな町が見えてきた。
たくさんの人々が・・種族を超えてそこに集い、ヒトの営みを繰り広げている。
「あ!」
亘は思わず声を上げた。ダルババの引く馬車に乗って道を進んでいくキ・キーマの姿が見えた。
「キ・キーマ!」
亘は天から呼びかけた。キ・キーマはダルババを操る手を止めて、ふと空を見上げる。
そして相変わらずの間の抜けた大きな声を張り上げ、辺りをキョロキョロ見回した。
「ん~?誰か俺を呼んだかーい?」
馬車を操るその手には、しっかりと亘の赤いハイランダーの腕輪が付けられていた。亘は胸がジンとして涙が溢れそうになった。
美鶴はちょっとだけ申し訳ないような顔をすると、飛ぶ速度を上げた。
キ・キーマの姿が後ろの方へ見る見る小さくなってゆく。亘はその姿を振り返りながらずっと見ていた。
次に大きな広場が見えた。その広場には大きなテントが建っており、たくさんのヒトが出入りをしていた。
──あれは・・・あれはミーナのいるスペクタルマシン団のサーカスのテントだ!
テントの外でジャグリングをしている大道芸人の傍で、クルクル舞踊ってる一人の少女の姿が見えた。
「ミーナ!」
軽快に華麗に歌いながら、ミーナは舞い踊っていた。集まっていた人々が次々にその踊りに拍手と賛美を送っている。
高い高い空の上にいたけれど、亘にはミーナの歌っているその歌が聞こえてきた。その甘い歌声が耳に届いてきた。
愛しいヒトよ 遠く離れて あなたは今 どの空の下
その歌声が耳に届いた途端、亘は不意に涙が溢れてきた。涙を堪えていたわけでもないのに、悲しい訳でも泣きたい気持ちな訳でもないのに、なぜか次から溢れて溢れて止まらなくなった。
そして今、自分のすぐ傍にいるぬくもりをその暖かさを失いたくないというように、掴んでいた美鶴の手をギュッと握り締めた。
そうしながら溢れる涙を拭おうともせず、ただ目を大きく見開いて泣きつづける亘の頬に流れる涙の雫を、美鶴は目を細めるとそっとその唇で拭った。
風よ 教えておくれ あのヒトは今どこにいるの
風よ 教えておくれ あのヒトが見あげる星を
ミーナの甘い歌声が遠く後ろに去ってゆくまで、亘の涙は止まることは無かった。
美鶴はその後も、次々とヴィジョンの世界を亘を連れて、天空を翔けた。
そして、もう太陽が水平線の彼方にその姿を隠そうとその日の最後の輝きをこの世界に放っている時、美鶴はふわりと大きな大きな樹の上に降り立った。ガサラの町に立っていたあの樹よりも巨大なそれは、まるでユグドラシル ─世界樹─ のようだと亘は思った。
まるで橋のように大きなその枝の上に立ちながら、美鶴と亘は自分たちの目の前に広がる広大で美しい世界をただ、黙って見ていた。
「ワタルの守った世界だ」
まるで、歌うように祈りを唱えるように囁いた美鶴の言葉に亘はゆっくり顔を上げた。
「おれが自分の願いの為に魔族を使って、滅ぼそうとした世界を・・・ワタルは救ってくれた。
・・・ワタルが救った・・ワタルの守った・・・何よりも美しい世界だよ」
美鶴は呟きながら、同時に深く目を閉じて続けた。今、自分の語る言葉を自分自身が聞き逃したくない、聞き逃してはいけないのだというように一言一言かみ締めながら。
「・・・ワタルの守った世界を・・ワタルの愛する者たちがいる世界を見守ることが出来るなら・・俺にとって千年の時は少しも長い時間じゃない・・」
亘は弾けたように顔を上げて美鶴を見つめた。美鶴は目を開くとゆっくりと亘のほうを振り返る。
そして言った。はっきりと。誓いの言葉を神に告げるように、その目に何の迷いも躊躇いも見せずに。
「もう、現世には戻らない。俺はヴィジョンを・・・ワタルの守った世界をもう一人のヒト柱と共に、これから千年守りつづける。それが俺の罪びととしての購いなんだ」
亘は目を大きく見開いて、ただ美鶴を見た。気がつけばまだ一度も自分から美鶴に話し掛けていないことに気づいた。
でも、なぜか口は開かない。言葉が出てきてくれない。今、美鶴に言われた言葉にこれ以上ないくらい深い悲しみを感じているはずなのになぜか、心の内は穏やかで凪いでいる。亘は自分が何をすればいいのか、どうすればいいのかまるでわからなくて、ただ佇んで美鶴を見つめるしかなかった。美鶴が静かに微笑むと優しい優しい声で告げた。
「本当の・・ほんとうの・・・サヨナラだ」
その言葉を聞いた時、亘の中で何かが溢れた。自分の中では受け止めきれないほどの何かが溢れて溢れて、静かに亘の中からそれは流れ出す。亘はおもむろに帽子を取り、脱ぎ捨てた。次に勇者の剣を静かに足元に置いた。それから体につけていた防具を外して、中に付けていたシャツをさらりと脱ぎ捨て、パサリと足元に落とす。
そして美鶴に向き合うと手を取って、素肌になった自分の胸に。心臓の鼓動が響く場所に。そっとその手を持って行く。
美鶴は目を瞬かせながら亘のするままにしていた。
「ミツルがくれた命だよ」
亘は幸せそうに微笑みながら、美鶴の手に自分の両の手を添えながら、鳥のさえずりのように囁いた。
「ミツルが僕にくれた命・・・ミツルが刻んでる鼓動だ・・・二人の鼓動だよ」
美鶴は自分の手から伝わってくる、その心音、その優しい鼓動に耳を澄ます。何度も何度も聞いた亘の鼓動。何度も何度も確かめた亘が存在している証の音。それが自分に伝わって自分の鼓動とシンクロして、二人の存在がひとつになる。
どちらがどちらかもわからなくなるくらい。どっちが自分なのかもわからなくなるくらいに。
「抱いていいよ」
まるで汲んだ水を飲んでいいよ、というような何でもない口調で亘は言った。
「僕の全部に・・触っていいよ。・・・触れてもいいよ。抱いてもいいんだ・・・」
この命は美鶴に貰った命だ。今、二人は同じ命を有している。二人でひとつの同じ命。
だったら、なぜ躊躇う必要があるだろう。それを美鶴が望むなら。ずっとずっと望んでいた事なら。
どうして躊躇う必要があるだろう。
亘は泣いていた。
「ミツルが好き・・」
美鶴が好き美鶴が好き美鶴が好き・・・大好き、大好き大好き・・・この世界の中で一番。
自分の中からその想いが溢れて止まらないくらいに。
それ以上の言葉は存在しない。それ以上の想いは存在しない。・・・大好き大好き大好き大好き・・・それだけだ。
美鶴は亘の胸に当てていた手をそっと動かすと、亘の首筋にその手を持っていった。そしてゆっくりと顔を近づけると亘の額にそっとキスを落とす。そして、微笑みながら言った。
「ありがとう・・ワタル・・ありがとう」
それから亘の肩口に顔を埋めて、亘を優しく抱きしめながら少し照れくさそうに恥ずかしそうに言った。
「ワタル・・俺が教えた幻界の結婚の誓いを覚えてるか・・・?」
亘は少し驚いた顔をすると、美鶴の顔を覗き込んでかすかに頷いた。
美鶴は嬉しそうに微笑むと音も立てず、亘の足元に跪いた。深く頭をたれ、祈るように守るようにその足元にひれ伏した。
「・・・我、幻界の女神の名にかけて誓う。星の静寂(しじま)より永久に。千年の時が過ぎるともあなたと共にあることを。
高き天が裂け、広き地が波打ち、深き海が涸れはてようとも。愛するヒトの子よ。共にあることを。」
美鶴の手が亘の手を取り、その手に唇を当てた。
「たとえ死して離れようとも・・・ヴェスナ・エスタ・ホリシア・・・我が魂はあなたと共にあることを・・・誓う」
美鶴は顔を上げ、亘を見た。これ以上ないくらい綺麗な笑顔。これ以上ないくらい幸せそうな顔で。
亘は跪く。美鶴の手を取り、愛を誓う二人が女神の御許に許しを乞うように二人で手を握り、向かい合って。
そして誓う。祈る。その祈りの言葉を祈る。静かに目を閉じ、その瞳から幾筋もの涙を流しながら。
「・・・我、幻界の女神の名にかけて誓う。星の静寂(しじま)より永久に。千年の時が過ぎるともあなたと共にあることを。
高き天が裂け、広き地が波打ち、深き海が涸れはてようとも。愛するヒトの子よ。共にあることを。」
いま、日はほとんど傾き、かすかな紅い紅い光だけが樹上にいる二人を照らしていた。二人のシルエットが一つに重なって、溶けていくのを周りを囲む樹の枝だけが見ていた。亘が流す涙だけが、暗い影を落とす闇の中で只一つの宝石のように光っていた。
「たとえ死して離れようとも・・・ヴェスナ・エスタ・ホリシア・・・僕の魂はミツルと共にあることを・・・どんなに離れても・・・もう、会えなくても・・もう・・すぐ傍に・・いられなくても・・それを誓い・・ます」
言葉にならない。想いが溢れてどうすることも出来ない。もう、亘にもわかっている。この永遠の誓いが永遠の別れの言葉にもなることを。
美鶴は受け入れている。亘に命を渡した事で、千年のヒト柱となることを幸福と共に受け入れている。
もう変えれない。それを変える事は出来ない。もう、一緒にはいられないのだ。
「ミツルが好き・・・」
溢れる涙が握り合った二人の手の上に降りかかる。キラキラとこぼれる真珠のように二人の手の上に降りかかる。
「ワタルが好きだ」
亘は泣きながら大きく目を見開いた。美鶴がまっすぐ亘の瞳を見つめながら続けた。
「・・何度も何度もワタルは言ってくれたのに、俺は一度も言ってなかった」
そして重なり合っていた手を解き、ゆっくりと亘の頬にそえた。亘が何よりも綺麗だと思っている美鶴の琥珀の瞳が近づいてくる。
「・・・誰よりも誰よりも誰よりも・・・ワタルが好きだ・・好きだ好きだ・・大好きだ」
亘がいたから生きてこれた。亘がいたから存在できた。亘のおかげで・・・誰かを愛する事を知ることが出来た。
優しいぬくもりが唇に降りてくる。
おそらく最初で最後のほんのかすかに小鳥がついばむような、優しい暖かさが唇に触れてくる。
「・・・ワタルに会えて良かった」
世界を覆う闇と反して、二人のまわりに光が満ち始め、包み始めた。亘は美鶴の姿が美鶴のぬくもりが自分から離れていくのがわかった。
「ミツルっ!」
離れる寸前。消えていく寸前。
美鶴はその手を伸ばし、亘の全てを包んで抱きしめた。その瞳に宿されているのは悲しみでもなく後悔でも無く、ただ自分が生を受けてこんなにも愛する相手にめぐり合えたことへの感謝。その喜び。その幸福だけ。
「サヨナラ・・・ワタル・・」
最後の最後の最後のぬくもり。忘れないように。忘れないように。忘れないように。
誰よりも誰よりも誰よりも大好きな大好きな大好きな君の。
会えて良かった。出会えて良かった。・・・キミを好きになれて・・・良かった。
サヨナラサヨナラサヨナラ・・・今度こそ本当に。大切な大切な大切なキミ。
自分の全てで美鶴の最後のぬくもりをとらえようと、その全てをとり込もうと亘は必死に手を伸ばす。
ミツルミツルミツル・・・大好き大好き大好き大好きだ・・・・いつまでもいつまでもいつまでも。
亘のこぼれ落ちる涙の滴が舞う中、消えていく寸前微笑んだ美鶴の綺麗な綺麗な笑顔を見ながら、亘もまた微笑んで静かに目を閉じた。
手の中のぬくもりが完全に消え去ったのを感じながら。
──サヨナラ・・・ワタル
──サヨナラ・・・ミツル
───ヴェスナ・エスタ・ホリシア・・・その意味は、再びあいまみえる時まで。
・・祈りの約束を取り交わした二人。誓いの約束を取り交わした二人。
・・・二人で一つの魂を持つ・・・あなたたち。あなたたちの魂はいつか再び出会うでしょう。
・・・悠久の時を経て・・
光の河に流されていくのを感じながら、どこかで運命の女神の声が・・・優しく自分に語り掛けてくる声を・・亘は聞いた。
「え?」
ゾフィという少女に、亘がいるであろう場所を教え、帰ろうと思っていた宮原はふと足を止める。誰かが自分を呼んだような気がしたからだ。あたりを見まわしたが誰もいない。気のせいかと思い、歩こうとするとそれは耳に響いてきた。
(奢れなくて悪かったな。宮原)
宮原はバッと顔を上げる。思わず叫びながら走り出していた。「芦川っ?!」
だが、どこを探しても美鶴の姿があるわけはなかった。宮原は息をついた。気が付けば病院の中庭に出ていた。そのベンチでまるで気を失っているように深く目を閉じ、ベンチにもたれかかるように座っている亘を見て、今度はそちらに走り出す。
「三谷っ!どうしたんだよ?」
宮原は慌てながらも亘の肩をそっとゆすりながら、声をかける。亘はゆっくりゆっくり目を開けると、一粒だけ涙を流しながら静かに口を開いた。
「宮原・・」
「どうしたんだよ?何かあったのか?外国の女の子が来ただろう。会ったのか・・・?その、芦川の事を知ってるって・・」
亘はかすかに頷いた。そして次に首を横に振った。宮原はその意味するところがわからなくて、問い掛けようと口を開くがなぜか言葉にならなかった。
「亘おにいちゃん・・・」
振り向くと中庭の入り口のところにアヤが来ていた。何かを悟った顔。全てを知ったのだというような瞳をして真っ直ぐこちらに近づいて来た。亘は静かに微笑むとアヤに手を差し出した。アヤはその手をそっと掴むと自分の頬に当てる。そしてそのぬくもりを感じながら涙を流した。次々頬を伝う涙をぬぐおうともせず、亘の手のぬくもりを確かめながら小さな声でアヤは言った。
「・・・ここにいるのね」
亘は静かに立ち上がり、そっとアヤの頬から手を離すとその手をアヤの背に回して柔らかく抱きしめた。
「・・・うん」
アヤを抱きしめる手に優しく力を込めながら、亘は頷いた。
「うん。ここにいるよ。美鶴は一緒に・・・僕と・・一緒にいるよ」
もう、傍にいないけど。もう、その姿には会えないけど。魂はここに。キミの心はここに。キミの想いはここに。
・・・・・一緒に・・一緒に・・いるよ。
抱きしめあう亘とアヤの姿を見ながら、宮原は静かに目を瞬かせた。そして気づいた。全てが幕を下ろした事を。
自分達の前にはもう、芦川美鶴は二度と現れないだろうと言う事を。
詳しい事は何もわからない。けれど。
──間違いなく、自分達は何かいま一つの終わりを迎えてしまった事を・・・感じていた。
亘はその後、全快して無事退院した。そして美鶴みたいに医者まではムリでも、誰かを助ける仕事をしたいんだと言って美鶴の代りを担うように、医療関係に進学する努力を始めた。美鶴の叔母はしばらく美鶴の消息を捜そうと努力していたが、ある日のアヤの一言でそれをふっつりと止めた。
──おにいちゃんはいるよ。いつも傍にいるよ。
そして、どうやら周りには内緒のようだけれど、密かに宮原がアヤと付き合い始めたことを知って亘は微笑んでいた。
教師を目指した宮原の後を追うようにアヤも幼稚園の先生を目指しながら、二人でお互いの夢を語り合ったりしてるらしいとは、それこそそんな話、隠す事も無理な小村のカッちゃんから聞いた話。美鶴がいたら、只じゃすまなかったろうなと言うカッちゃんに宮原なら平気だよ、と亘はまた笑った。
その姿が無いだけで、そこにいないだけで彼らの中に芦川美鶴は存在していた。彼のいた時間軸は彼らの中に存在した。
そうして次々と日は廻った。何度も何度も彼らの前を季節は廻り・・・・時は過ぎて行った。
───運命の女神の告げた悠久の時は・・・ゆっくりとゆっくりと過ぎていく・・・
あれからどれほどの時が過ぎたのだろう。
砂時計がその砂の一粒一粒を落とし時を刻むように、運命もまたその時を刻んでいた。
消えることのない大切な言葉とその想いと共に。
──終章──
運命の女神の世界 ─ヴィジョン─ は今日も美しく、光に満ちていた。
周りに色とりどりの鳥たちを従え、長い顎鬚をたらした老人が杖を突きながらそぞろ歩いていると一人の少年がその老人に声をかけた。
「おや。お主は」
「お久し振りです。ラウ導師さま」
幻界に来た旅人の案内人ラウ導師に、その少年はぴょこんと頭を下げた。
「いやはや、本当に久し振りじゃのう。元気にしておったか?」
「ハイ」
「彼に会いに来たんじゃな?」
「ハイ」
「いくが良い。彼は運命の塔の頂上にいるぞ」
「有難うございます」
「ああ、それにしてもお主は相変わらずその格好か。これだけ時が経ったんだからもう少しマシになってもいいじゃろうにのぅ」
少年は走り出しながら、それでもラウ導師の方を振り返り、笑いながら言った。
「いいんですよ!だって僕はこの格好が一番なじむもの!」
運命の塔はまばゆいばかりの太陽の光を受けて輝いていた。
少年は、息を切らせ走りながらその頂上を目指した。あたりが光に包まれて眩しくて、目を開けるのもやっとだ。
それでも少年は走るのを止めず、必死に頂上を目指す。やがて、塔のてっぺんが見えてきた。
少年は立ち止まると息を整えながら、その場所に目を凝らした。まだ先にある塔の頂上に、小さく一人の少年の後ろ姿が見える。
遠目からでも薄茶色の髪が光に輝いているのがわかった。黒くて長いローブを纏い、手には宝玉のついた杖を持っていた。
少年は今度はゆっくり歩きながら、その場所に進んでいった。
一歩一歩近づきながら、頂上に立つその一人の姿が間違いなくそこにいるのを確かめるように、踏みしめるように歩いた。
一陣の風が吹き、ふわりとその少年のローブを舞い上げる。と、同時にその少年は空に浮いた。
音も無く、まるでその少年も一陣の風かのように空をふわりと舞い上がりながら、こちらを振り返った。
光を受けてまるで本物の琥珀のように輝くその瞳に、いま、目の前に現れた少年の姿をはっきりと映して。
そして両の手を伸ばした。自分のすぐ真下にいる少年に向けて、空中からその両の手を真っ直ぐ伸ばしてきた。微笑みながら。
迷子の子供が帰るべき場所に、やっと辿り着いた時に述べる言葉と共に。
「ただいま・・・ワタル」
その言葉を聞いて、この世の全ての幸福を手に入れたかのような微笑を浮かべて、少年も自分の両の手をいっぱいに広げ差し出した。そして告げた。迷子の子供を迎える言葉。何よりも優しいその言葉。全てを包む安堵の言葉を。
「おかえり・・・ミツル」
──ヴェスナ・エスタ・ホリシア・・・ヴェスナ・エスタ・ホリシア・・・再びあいまみえる時まで。
キミに。大切なキミ。大切なキミに。
──ただいま・・・ワタル
──おかえり・・・ミツル
広大な光が空に広がり、幻界の世界全てを包んでいる。悠久の時を刻みながら、いまこの世界はどこよりも美しく輝いていた。
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