亘が奇跡的に回復して、目を開けた日から美鶴からの連絡はふっつりと途絶えた。
叔母とアヤは、アメリカの知人に頼んで八方手を尽くして、美鶴の消息を探したが何の手がかりも得られないまま時は過ぎた。
アヤは毎日泣いているようだった。亘の所に来た時は気丈に笑顔でいたが、常に真っ赤な瞳がそれを物語っていた。
宮原は気がつけば、そんなアヤの傍にそっと寄り添っていた。支えるように。
亘は覚醒したとはいえ、まだしばらく入院してリハビリの日々が続いている。
目を覚ました日に美鶴の名を口にしただけで、亘はそれ以来美鶴の名を一切口にしなかった。
まるで言葉にしてしまったら本当に美鶴の存在が掻き消えてしまうのではないかと恐れているように。
ボンヤリとした瞳で空を見上げて、いつも只遠くを見ていた。
「三谷・・・」
見舞いに来る度、そんな亘を見て、宮原はなんと声をかければいいのかわからない。
目を開けた亘に駆け寄った時に、宮原は亘が──美鶴が僕に命をくれた・・・と小さく呟いたのを確かに聞いた。
そのときは何かうわ言のようなものなのかと思い、あまり気に留めなかったのだが・・・
芦川なら。
芦川ならそうするかもしれない。
どんな手段でどんな方法でそんな事が出来るのかは。
そんな事が有り得るわけもない、とも思いながらも。それでも宮原は思う。
芦川ならきっと・・・きっとそうするだろう。
何よりも何よりも大切な自分の宝物。三谷亘のためなら。
──彼はその命を、その全てをきっと捧げだす・・・微笑みながら・・・
「・・バカやろ・・・」
呟きながら宮原は鼻の奥がツン、とした。亘の病室まで来ながら宮原は不意に耐えられなくなって病室の中に入ろうともせずに踵を返した。
そして自販機の前に来ると、缶コーヒを買った。
それを手にとると飲もうとせずにギュッと握り締め、ポツリと言った。
「お前・・今度は俺におごるって言っただろ・・・」
苦しそうに寂しそうに、今、目の前にはいない相手に語りかけた。
「帰って来い・・・芦川。・・・帰って来いよ・・」
パキン・・・
誰もいない病棟の廊下に、缶コーヒーのプルタブを空ける音だけがやけに響く。
「Are you a friend of Wataru?(あなた、ワタルのお友達?)」
自分以外は誰もいないと思っていた病棟の廊下に振り向くと、一人の異国の少女が微笑みながら宮原をじっと見ていた。
いつの間に現れたのか唐突に問い掛けられて、宮原は缶コーヒーを飲もうとした状態でしばらく固まってしまった。
「Are you a friend of Wataru?」
少女は小首を傾け、微笑んだまま、もう一度同じ質問を繰り返した。二つに束ねている髪の毛がふわりと揺れた。
宮原は少女のその柔らかい笑顔を見て、いままで暗雲がかかっていたかのような自分の心の内が静かに晴れて行くような気がした。
右手に持っていた缶コーヒーを左手に持ち直し、少しどぎまぎしながら返事を返した。
「あ・・・え・・yes・・・yes・・」
答えながら、宮原は思わずコクコクと頷いてしまった。
宮原のその態度を見て、少女はみたび微笑み返すと宮原の空いてる方の手を握り、囁くように問い掛けた。
「Where is he? He is not in a sickroom now(彼はどこ?今、病室にいないの。)」
そして、少女は宮原の手を握る手に少しの力を込めながら、まるで天の啓示を伝えるかのようにはっきりと囁いた。
「I know Mitsuru(私はミツルを知ってるわ)」
宮原は目を大きく見開きながら、少女の湖水のような蒼い、澄んだ瞳を見つめ返していた。
「Wataru?」
呼ばれて亘は振り返る。
リハビリを兼ねて、病院の中庭を散歩している途中に不意に自分を呼び止めた声の主を見て、亘は信じられないといったようにじっとその少女の顔を凝視してしまった。
「私を覚えてる?」
亘は今、目の前にいる少女の存在がすぐには信じられなくて動けないでいたが、やっとの事で首を縦に振った。
「そう、良かった」
「・・・・ゾフィ皇女・・」
「ゾフィでいいのよ」
ゾフィは微笑むと、中庭にしつらえられているベンチの方へ亘を促した。
「病室に行ったら、いなかったからあなたのお友達に聞いたの。そしたらきっとここにいると思うって教えてくれたの」
「・・・友達・・宮原?」
「そう、Miyaharaっていってたわ。いい人・・・いいお友達ね」
ゾフィはベンチに腰掛け、両足をブラブラさせながら青空を見上げた。
「いいお友達がいっぱいいる・・・ワタルの周りには。ワタルは一人じゃないわね・・・」
そして、顔を下げ、亘の方をまっすぐ見つめながら穏やかな、静かな声で言った。
「・・・この世界だけじゃなく・・あなたが旅した世界にも。大切な仲間・・大切な人たちがあなたには存在してる。
・・・いつだってワタルを見守っている。ワタルの幸せを願っている・・・」
亘はその言葉を聞いて、知らず知らずにそっと目を閉じていた。
目を閉じた向こうにキ・キーマや、ミーナの笑っている姿が浮かんだ。
カッツや、ハイランダーの仲間たちの姿が浮かんだ。
(何がっあっても私達がいる事忘れないで・・・)
夢の中で出会ったミーナが言ってくれた言葉を思い出した。
「でも、ミツルは違うわね・・・」
亘はその言葉にハッとして目を開ける。
「一人・・・たった一人・・こっちにはまだ、ワタルや幾人かの大切な存在があったのに・・・
向こうでの彼は、本当にただ一人・・・ひとりっきり・・・」
「美鶴がどこにいるか知ってるんですか?!」
亘は思わずゾフィの肩を掴んで叫んでいた。心臓が今にも破裂しそうに鼓動を打っていた。
ゾフィは震えながら自分に問い掛ける亘を、慈悲深いとしか表現の出来ない微笑を浮かべて、優しく見つめた。
「私が教えなくたってあなたはミツルがどこにいるか知っているはずよ」
亘は大きく目を見開いた。吸い込まれそうなほど蒼いゾフィの瞳に、揺れる海面に浮かぶような亘の姿が映っていた。
その姿が、一瞬後その青い瞳の中で本当に揺れて、次に映っていたのは、あの時の亘の姿だった。
──11歳の少年の亘。勇者の姿の亘。
──・・・・ヴィジョンを旅したときの姿の亘・・・
大切なものを。
何よりも大切なものを取り戻すために運命の扉をくぐった・・・あの時の亘。
「私は言いましたね?あなたは受け止めることが出来ますか、と。・・・・決して投げ出すことなく。
決して逃げることなく、ミツルの罪を・・・その傷を・・その全てを受け止めることが出来ますか?と」
ゾフィはベンチからゆっくりと立ち上がった。
幼い表情はいつの間にか消え、そこに立っているのは誇り高い、気高い雰囲気を纏ったまごうことなき、一人の皇女の姿。
・・・いや、そうではない。少女の姿をしているけれど。皇女の姿をしているけれど。
「あなたは・・・」
「答えを出しなさい。・・・ワタル」
ゾフィは聖母が幼子に手を差し伸べるように、両手を静かに広げると目を細め、限りなく優しい声で告げた。
「私が気づかぬうちに、私が手を及ぼす事も出きぬうちに、気がつけば出会っていた二つの魂が、どのような意味を持つのか。
・・・・・確かめて答えを出しなさい。・・・・もう二度と共にいられなくなったとしても。
・・・千年の時が過ぎる前に。あなたはその答えを出さなければなりません。幼い二つの魂たちよ」
病院の中庭にいたはずなのに、気がつけば辺りは光に包まれ、亘の周りには風が舞っていた。
亘は激しく舞う、風に息がつけず両手で顔を覆って叫んでいた。
「女神様!!美鶴は・・・美鶴はハルネラの半身に・・・人柱に・・・戻った?・・・そうなんですね?!」
「答えを出すことを恐れてはいけません。答えを知ることを躊躇ってはいけない・・・
ワタル・・・あなたは勇者なのだから」
ゾフィ自身が光に包まれ、その光があたりの全てを包み、亘は目が眩みそうになって思わず目を閉じた瞬間。
亘は自分の体が浮くのを感じ、同時に頭の中が真っ白になるのがわかった。
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