Tear drop
最近、亘の様子がおかしいと、美鶴は思っていた。
心、ここに在らずといった感じでいつもボーっとしている。
美鶴はさりげなく、宮原に亘のその様子をふってみたら「三谷がポヤンとしてるのなんて何時もの事だろ?」と返されあまつさえ、「芦川、お前は三谷のこと気にし過ぎなんだ」とあきれたため息をつかれた。
「そういえば、ここ最近なんか決まった時間帯に必ずどっかにいってるみたいだゼ」
そう言ったことに鈍そうでいて、実は宮原よりも鋭かったりするカッちゃんから聞き出したのは次のような事だった。
塾の帰りにまっすぐ家に帰らないで、何処かによっているらしい──
美鶴はいつもなら、そんなことはあまり気にしない。
いくら、亘に関することとは言え、プライバシーにまで口を出すのは主義ではないし、今までの経験から言ってもそういった事につくオチは、たいてい可愛い猫がいる公園に寄り道してただけとか、知り合いの家の子犬に会いに行っていたとか、そんな類がほとんどだったからだ。
けれど今回ばかりはどうもそう言った類とは違うような気が美鶴はした。
なぜなら、時折見せる亘の瞳の色が明らかに嬉しそうなものではなかったからだ。
悲しそうな辛そうな・・・でも、迷っているようなそんな感じの瞳の色をしていた。
普段はいつもどおり、明るく振舞いながらも気がつけば亘はそんな瞳をしているのだ。
正直、美鶴は亘のそう言う顔を見るのはいやだった。
自分は感情を表に出さないポーカーフェイスのくせに、──あんたの笑顔は出し惜しむ、どんだけの値打ちがあるのよ──と叔母に常々、突っ込まれるくらい笑顔を浮かばせないくせに、亘には笑顔でいて欲しいのだ。
亘にはいつでも笑ってて欲しいのだ。
宮原あたりが聞いたら「芦川、それって思い切りエゴイスティックじゃないか?」と、またため息をつかれる事は間違いない。
そして多分美鶴はこう言う、ハッキリと。「それのどこが悪い?」
──亘が笑ってないと俺が嫌なんだ。だから、亘は笑ってなきゃダメだ。そう思ってることの何が悪い?──と。
「亘、話がある」
昼休みに給食が終わって、皆が一斉にグランドに飛び出していった後。
自分もその後に続こうとした亘は美鶴に腕を引かれて、驚いた顔を上げた。
「え?何?美鶴、どしたの?」
きょとんとした声と顔で亘は美鶴を見返した。美鶴は顎をしゃくると廊下の一番端の人気のないところへ亘を連れて行った。
そして腕を離して、まっすぐ亘を見つめると静かに言った。
「気になることがあるなら、俺に言えよ」
亘は美鶴のその言葉を聞くと、更に目を見開いてきょとんとした顔をした。
そして次に美鶴の言葉の言った意味をだんだんと理解して、戸惑った声を出した。
「え、えっと・・・美鶴、それって・・・」
「ずっと気になってることがあるんだろ?だからここ最近、浮かない顔してるんじゃないのか?
・・・・俺にもいえない事か?亘ひとりで抱え込まなきゃいけないことなのか・・・?」
少しだけ寂しそうな美鶴の声色に亘は思わず俯いて、それから困ったような嬉しいような顔で小さく美鶴に問い掛けた。
「・・・なんで、わかったの?」
「何で、俺がわからないと思うんだよ?」
疑問形を更に疑問形で返されて、亘は思わず吹き出しながら観念したように答えた。
「うん。わかった。放課後ちゃんと話すよ。・・・ありがと、美鶴」
そう言って久しぶりに自分に向けられた笑顔が何時もの亘の笑顔だと気づいて、美鶴は目を細めながらコクンと頷いた。
「父親?」
「うん・・・多分・・」
学校が終わってから二人はあまり人気のない公園に来て、ブランコに腰掛けていた。
亘は片足でブランコを蹴り、キィキィ言わせながらポツリと言った。
「塾の帰りにたまたま、違う帰り道歩いてみたんだ。えっとね・・・途中にすごく可愛い柴犬いるうちがあって・・・
それを見に行ってたんだよね。そしたら・・一週間くらい前に・・」
犬を可愛がった帰り、近道をしてみようと大きな交差点のあるほうに向かって歩いていて、交差点を十字にかけている歩道橋のうえに、自分の父親らしき姿をみたのだと言う。
最初はあまり確信が持てなかったのだけれど、何度か通って見かけるたびに、間違いなくそれが自分の父親である事に気づいた。
「今でも、時々お父さんから電話とかはかかってくるし、お母さんは逢いたい時はあっていいのよって、言ってくれてるんだけど・・・」
やっぱり、なんとなく母の手前それも躊躇われて亘は父と母が離婚して以来、自分から父親に連絡する事はなかった。
そうして毎日が過ぎていって特に寂しいとも、父がいない事で何か不都合を感じたりする事もなく来たのだけれど。
「・・・・ああやって姿を見ちゃうと、その、なんだろ・・やっぱりさ・・」
ブランコをキコキコ揺らしながら、亘は小さな声で呟いた。
美鶴はブランコから降りて、亘の前に立つとその頭にそっと手をのせ優しく囁いた。
「逢ってくればいいだろ」
頭を優しく撫でながら、そういう美鶴に亘は驚いたように顔を上げた。
「え、でも・・・」
「逢いたいんだろ?だったら、逢って声かけて来ればいいだろ。亘の父さんなんだから。
離婚してようが、なんだろうが亘の父親であることには変わりないんだから」
「うん・・・でも・・そ、そう、・・・かな?」
「そうだ。変わらないよ。逢おうと思えば逢える存在なんだから、逢いたかったら逢えばいいんだ」
美鶴のその言葉に亘は少しハッとした。
思わず美鶴の顔を見つめると美鶴は真っ直ぐ亘を見ていた。少しだけ悲しそうな瞳で。
亘は美鶴が今何を考えたのか、何を思ったのかがすぐ手に取るようにわかった。
そしてとっさに口を付きそうになった謝罪の言葉をグッと飲み込んだ。
今、美鶴が言ってくれた言葉に対して自分が口にしなければいけないのは謝罪の言葉ではないのだから。
亘は微笑んで美鶴を見返しながら、そっと呟いた。
「・・うん。わかったよ。そうしてみる。・・・・美鶴、ありがとう」
亘の返した返事に美鶴はかすかに頷いて、静かに微笑んだ。
それから3日後。
その日は朝から雨が振ったり止んだりしているぐずついた天気の日だった。
美鶴はあれ以来、亘がどういう行動を取ったのかを亘が自分から話してくれるまでは聞かないようにしていた。
どういう結果であれ、亘は自分にきちんと話してくれるだろうと思っていたからだ。
その日学校であった時も亘はいつもと変わらなかった。
ただ、なんとなくその瞳が何かを決意したようなハッキリとした色をたたえているような感じがした。
多分、何かの行動を起すのだろうと美鶴は感じると同時に、自分はもしかして亘に余計な事をいったのではないかと珍しく少しの後悔と、漠然とした不安を持っていることにその時気づいた。
雨は放課後からどんどんひどくなっていき、その雨音を強く響かせていた。
「どうしたのよ?美鶴、こんな時間に出かける気?」
「どうしても欲しい本があるから、ちょっと出て来る。すぐ戻るから」
叔母の何もこんな土砂降りに行かなくたっていいでしょー?という言葉を背中越しに聞きながら、美鶴は傘を広げて外に出た。
雨は夕方になっても一向に止む気配を見せずに、さらにその雨足を強めていた。
美鶴は雨の中を小走りに駆けながら、亘の言っていた交差点に向かう。この時間ならもう亘は塾が終わって本来なら、とっくに家に帰っているはずだった。
だから多分いないだろう。大丈夫だろう。何かあったとしてもきっともう、家に帰ってるに違いない。
美鶴はそう自分に言い聞かせるように、それでも胸に抱えた漠然とした不安を消せないまま、先を急いだ。
もう交差点は間近という道まで差し掛かったとき、その近くの街路樹のそばに街灯に照らされて、小さな人影があるのに美鶴は気づいた。
辺りに人は他に誰もいない。美鶴は何か予感がするとその人影に向かって走った。
「亘?」
呼びかけられて、その影はゆっくり振り返る。
雨の中、傘も差さずに雨に打たれてびしょ濡れになっている亘がいた。美鶴を認めると驚いたように大きく目を見開いていた。
「美鶴・・?」
「バカ・・!何やってんだ。傘も差さないで!・・」
美鶴は亘の手を引っ張って、自分の傘の中に引き入れるとズボンのポケットに入れていたハンカチを出して、亘の頭と顔をゴシゴシ拭いた。
「風邪引いたらどうするんだ!バカ!」
「あ・・え、と。・・ごめん。・・・傘、塾に忘れちゃって・・・」
言い訳にもなっていない明らかな嘘に、美鶴は表情をこわばらせるとハンカチでそっと亘の頬を抑えながら静かに聞いた。
「・・・親父さんと何かあったのか?」
亘はその言葉を聞いて肩をピクリと震わせた。そして少しだけ顔を俯かせたが、すぐに上げて笑顔で美鶴を見るとキッパリと言った。
「何にもないよ」
「亘」
美鶴は見たことのないくらい、真剣な瞳で亘を真っ直ぐ見つめた。その目にはごまかしはきかない、隠す事は許さないと、いった断固とした色が浮かんでいた。
亘は目を伏せると諦めたように、小さな声でゆっくりと話し始めた。
「別に・・・本とになにもないよ・・だって逢ってないから。今日声をかけようと思って・・・。
・・・見かけたら、お父さん!って言おうと思って行ったけど・・・」
亘はポツリと言った。本当にポツリと、一瞬何事でもないような言い方で小さく呟いた。
「・・・手、つないで歩いてたんだ。僕より少し小さな女の子と楽しそうに仲良く手をつないで歩いてたんだ・・・だから・・」
美鶴は目を瞬いた。
亘から父親の再婚相手には女の子がいるという、話を聞いた事があった。
「・・・だから、声もかけないで戻ってきたんだ・・」
沈黙した二人の上に雨はまだ激しく降り続いていた。傘に当たる雨の音をどこか遠くに感じながら、聞いていた亘は美鶴が不意に傘を放り出すと、辺りもはばからずに自分をを引き寄せ、抱きしめてきたことに驚いて両目を見開いた。
「ゴメン・・・」
「み、美鶴・・・?」
「・・ゴメン、俺が無責任なこと言ったからだ」
美鶴のその言葉に亘は何度も目を瞬かせた。そして自分を抱きしめてくる美鶴の肩に手をやると、慌ててフルフルと首を振った。
「ち、違うよ・・違うよ!美鶴は関係ないよ。・・ぼ、僕が自分で勝手にそうしようと思って行って・・・
それで思わぬもの見ちゃったから、ちょっと落ち込んだだけで・・・そう、ちょ、ちょっとビックリしただけなんだ!」
美鶴は抱きしめる手を少し緩めると、わずかに体を離した距離からまた亘をじっと見つめた。
だから美鶴は謝る事なんかない、美鶴のせいなんかじゃない──と、亘が言葉を続けるより早く美鶴は言った。
「・・・泣いてたくせにか?」
傘を差していない美鶴は見る見る雨の滴に濡れていく。すぐ傍に放り出された傘の上にも雨はバシャバシャと音をたてながら降り続いている。
亘は雨に濡れながら、瞬きもせずにじっと美鶴を見返した。
二人は途切れる事のない銀の滴の中に立ち尽くして、お互いだけをしばらくの間、ただ見ていた。
何をするでもなく、何を言うでもなくお互いの瞳の中に映る自分を只、見ていた。
「なんで・・・・」
先に口を開いたのは亘だった。嬉しいような恥ずかしいような、でも困ったような少しだけ悲しそうな声で美鶴に問い掛けた。
「なんでわかっちゃうの・・・?」
「何でわからないと思うんだ・・・?」
そう言って、美鶴はゆっくり亘に顔を近づけてきて、コツンと自分のおでこを亘のおでこにくっつけた。
そして切ない声で優しい声で、微笑みながらそっと耳元で囁いた。
「どんなに雨が降ってたって、どんなに雨に濡れてたって・・・俺には亘の涙の痕くらいわかる・・・
亘がそれを隠そうとした事くらいわかる・・・」
自分のおでこから伝わる暖かいぬくもりに、亘は気がつけば涙を一筋流していた。
雨とは違うその温度を持って流れた滴を、美鶴はそっと唇ですくった。
後から後から流れる滴を美鶴は何度も何度もそっとぬぐった。
雨に濡れればわからないと思った。
雨に濡れたらごまかせると思った。
見知らぬ女の子と手をつないで、幸せそうに歩いている父を見た時、亘は気がつけばその場から駆け出していた。
自分の知っている父なのに、自分と暮らしていたはずの父なのにそこにいたのは、もうまるで別の世界に住む見知らぬ一人の男性だったからだ。
その世界に亘は存在していないのがわかったからだ。その現実を突きつけられて、亘は居たたまれなくなった。
悲しいわけではなかった。父に対して何か恨み言を言いたくなったわけでもない。
ただ寂しかった。
やるせないほどの寂しさが胸に広がってきて辛くなった。
泣きたくないと、思っても涙が溢れて止らなくなった。だから途中で傘を捨てたのだ。
雨に濡れて帰れば、きっと家に帰っても母は驚くだろうけど泣いた事には気づかないだろうと思ったから。
なのに・・・
「・・・なんで、なんで美鶴はわかっちゃうのさ・・・」
「ゴメン・・・」
「・・・ばかぁ・・・謝る事じゃ、ないじゃん・・」
「うん・・」
半分笑いながら、そしてまだ半分は泣きながらお互いのおでこは触れ合わせたまま・・・二人は雨に濡れるのもかまわずそっとお互いの背に手を回して、雨の中しばらく佇んでいた。
それから二人は揃って風邪を引き、仲良く学校を休んでしまった為、風邪が治って何日かぶりに二人で登校して行ったら、勢い込んだカッちゃんとそれを半分静止しながらも、怪しげな顔をしていた宮原に揃って
「お前等、二人なにがあったんだぁぁ!!」と、(主に美鶴が)思い切り詰め寄られてしまった。
亘は笑いながら、何にもないよ!と答えて、その笑顔がいつも亘の心からの笑顔だと美鶴は気づいてかすかにほくそえんでいて。
カッちゃんと宮原は二人の間に間違いなく今までと違う何かが流れてるのを感じて、心に冷や汗を流していた。
「美鶴」
中休み、カッちゃんの詰め寄り攻撃から逃れて、二人は中庭に来ていた。
そこで亘がポケットから何かを取り出して、美鶴に見せた。
「これ、学校休んでる間に来たんだ・・・」
それは一枚の暑中ハガキ。青い空と白いハトが描かれたイラストのすぐ傍にその文字は小さく、でも間違いなく確かな想いが込められてこう書かれていた。
『また大きくなったな、亘。元気そうで安心しました。─A・M─』
差出人も住所もないそのハガキが誰からの者なのか、美鶴には考えなくてもわかった。
「もしかして・・・気づいてたのかな・・・」
「きっと、そうだろ」
確信を込めてそういう美鶴に亘は、キョトンとした顔をしながらも、次にものすごく嬉しそうな笑顔を浮かべてガバッと抱きついた。
「わ、わ、亘っ?!」
「ありがと!美鶴、大好き!!」
「わーーーっ?!何やってんだッ!何やってんだぁッ!!お前等ーー!!」
「わーー!小村ッ、落ち着けっ!」
二人を見つけたカッちゃんが、ものすごい勢いで向こうから駆けて来る。
今日、空は晴れ渡り、まぶしいくらいの太陽と白い雲が幸せそうに笑いあう美鶴と亘を照らしていた。
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