幼稚で優しい秘密のキミ
バシィ・・・ン!
あまり広いとは言えない小さな公園にその音は、鋭く響いた。
瞬間、辺りの空気が震えて風がざわめいた気がした。
それからしばしの沈黙。
けれどそれは、氷のように冷たくとがった声色で一瞬にして破られた。
「だれだ?」
さわさわと風にざわめく木々の葉たちが、その声に怯えをなしてその囁きをひそませる。
恐ろしいくらいの怒りを含んだ声はもう一度、同じ問いを投げかけた。
「亘に手を上げたのはだれだ?!」
左の頬を真っ赤にしながらそれを片手で抑えている亘は、美鶴のそのあまりの剣幕に驚いて大きく目を見開いていた。
そして美鶴の氷のような視線から逃れる事が出来ずに、顔を少し青ざめさせている二人の少女と一人の少年はその場から動く事も出来ずにただ、立ち尽くしてた。
もうすぐ、休みに入るという中学2年生の夏。
いわゆる思春期と言われるこの時期の少年少女達は、皆一様に浮き足立っているものだ。
長期の休みが近いとなれば尚更。
それは亘と言えども例外ではなく、まだ休みまで一週間はあると言うのに遊びに行く為の計画を美鶴にあれこれ持ちかけていた。
美鶴はため息をつきながら、下校途中の帰り道、子犬のように自分にまとわりついてくる亘をまず、落ち着かせるのに必死だった。
「落ち着けよ。課題や来年に向けての受験の準備だってあるのに遊ぶ計画ばかり立ててられないだろ?」
「えー?なんだよそれ?!遊びと勉強は別じゃん!せっっかくの夏休みに勉強ばっかりしててどうするのさ?」
せっかくの夏休みなんだから、それこそ周りと差をつけようという考えは亘にはないらしい。
口を尖らせながら美鶴から顔を背けて、ブツブツ言い始めた。
「伯父さんがまた、遊びに来いって言ってくれてるのにな・・・それにうちのクラスの男子皆でさ。
それこそ女子誘って遊園地や、海に行こうって計画にも誘われてるんだ!・・花火もだよ!
美鶴はクラス違うけどさ。頼めば、きっと一緒にいっても平気だと思うんだよね。・・・女子と一緒にだよ?
美鶴はそーゆーの行きたくない?」
「へー。三谷くんは女の子と一緒にそういうことがしたいわけですか」
明らかに気分を害したらしい美鶴の物言いに、亘はキョトンとした顔を向けながら言った。
「だって、楽しそうじゃん?!」
「だったら亘はクラスの連中と行って来ればいいだろ。俺はごめんだね。
女子と一緒なんてやかましくて疲れるだけだ」
「ええー?・・・あ、でもそうか・・確かにね。美鶴が来たら女子騒いじゃってすごい事になるモンね・・
そしたら他の男子も面白くないだろうしなぁ・・」
亘は考え込むように俯いてしまった。
そんな亘に美鶴は疲れたようにため息をついた。そういうような意味で言ったわけではないのだが。
正直美鶴にとって同年代の女子は、ただのうっとうしい存在以外の何者でもない。
異性の存在をことさら意識する年代なのだから仕方ないのだろうが、男子女子の捉え方を何でも恋愛的に結び付けたがるのが、美鶴にとっては煙たくて仕様がないのだ。
美鶴にとっては他人の恋愛沙汰なんて、一番どうでもいいことだった。
誰が誰と付き合ってるとか、誰が誰を好きらしいとか、そんな事でいちいち騒ぎ立てる事が出来ることにむしろ感心する。
そしてそんな女子に対して、満々の関心を持ってる同年代に対する男子に対してもしかりだ。
だから、美鶴にとってはそんな連中からの誘い自体に何の関心もないのだが、亘は美鶴が自分が行けば皆に迷惑がかかるから二の足を踏んでると思ったらしい。
「そうだよね・・・仕方ないかぁ。残念だけどそれは断るね・・」
「・・・だから、亘は行って来ればいいだろ」
あまりの亘のしょげぶりに、内心面白く思わないながらも美鶴は言った。
「美鶴が来ないのに僕だけ行ってどうするのさ?それじゃ、全然楽しくないじゃん!!」
顔を上げ、真剣な表情で自分にハッキリそういう亘にジッと見つめられて、美鶴は思わず目をそらしてしまった。
そして赤くなった顔を悟られないように、片手で少し顔を隠しながら亘の方を見ないで、かすかなため息をつきながら呟くようポツリと言った。
「課題を仕上げてからなら、どこだって付き合ってやるから・・・」
亘は美鶴のその言葉を聞いて、落ち込んでいた顔を一瞬にしてパァッと輝かせた。
「ホント?!」
「課題がちゃんとすんでからだぞ。夏休みの最初にまず、それをやってからだ」
「うん!わかった。約束する!ちゃんと約束する!アリガト、美鶴!!」
そういいながら、抱きつかんばかりに自分の片腕に嬉しそうにしがみついてくる亘を支えながら半分クラクラしている美鶴も結局のところ、立派な思春期少年の一人であった。
「美鶴、今日は先に帰っててくれる?」
そしていよいよ明日から、休みに入るという当日。
自分のクラスで帰り仕度をしている時にやってきた亘にいきなりそう言われて、思わず美鶴は聞き返した。
「何か用事があるのか?」
「うん。あのさ、この間言ってたクラスの皆で出かける件、まだちゃんと断ってなかったから断ってくる。
今日、皆でそこの喫茶店で計画立てるって言うから」
「行くって返事したわけじゃないんだろ?だったらほっときゃいいのに」
「そう言う訳にいかないよ。それになんか計画立てた奴にちょっと相談もあるって言われたから。
そう言うことだから、さき帰ってて。ゴメン!」
言いながら、走って行く亘の後姿を見ながら美鶴は、小さく息をついてひとりで本屋にでも寄って行くかと考えていた。
思ったより本屋で時間をつぶしてしまった美鶴は、足早に家に向かって歩いていた。
あまり遅くなると、叔母が仕事から帰ってくるまでの間、アヤを家で一人きりにすることになるからだ。
近道をしようと交差点を通ってから、傍の公園へ入った。たいした遊具も無いその小さな公園は、ほとんど人気も無い。
美鶴はふと、いくつか立ち並んでいる木々の向こうから何か言い争うような声が聞こえてくるのに気づいた。
「・・・・から!バカにして・・ひどい・・」
「・・な、つもりじゃ無かったって・・・ちゃんと、話を聞いて・・・から・・」
(・・・?)
その声の主の一人が亘の声のような気がして、美鶴は思わず立ち止まる。
確認しようと木の向こう側へ、足を一歩踏み出した時にそれは起きた。
「・・・知ったかぶったような事ばかり言って!三谷に何がわかるのよ?!勝手なことばかり言わないで!!」
次の瞬間、聞こえて来たその乾いたような音に美鶴は自分の心臓が凍りつくのを感じた。
そして左の頬を真っ赤にさせて、それを片手でおさえている亘を目の当たりにした時、今度は美鶴は自分の体中の血液が沸騰したのがわかった。
「だれだっ?!」
唐突に現れて、いきなり叫んだ美鶴のそのあまりの迫力に、その場にいた全員は顔を上げて驚くと共にその場に固まった。
そして美鶴は気がつけば亘に手を上げたと思われる少女に、鋭い刃のような視線で睨みつけながら詰め寄っていた。
「え?み、美鶴・・?!」
「お前か・・?どういうつもりで亘を殴った?・・・なんのつもりだ?!」
「ち、違うんだ!芦川!」
その場に固まっていた少年が、慌てて青ざめながら泣きそうになっている少女の前に立ちはだかって叫んだ。
「・・え、えっとその、誤解なんだ。あ、あの彼女たち二人と俺でちょっとした誤解が在って・・・
それで三谷に頼んでその誤解といてもらおうと思って・・・三谷が色々話してくれたんだけどその、うまく伝わらなかったみたいで・・・・」
「誤解?」
「え、その・・俺、この子と付き合ってるんだけど・・そっちの彼女と海行った時、二人きりになろうって話してたとか・・
二股かけてんじゃないのとかって言われてさ・・・それで・・」
美鶴は思い切り、顔をしかめた。
亘以外のこの場にいる全員を、それこそ殴りつけて罵倒してやりたい気持ちでいっぱいになった。
下らない!
そんな下らない事に亘を巻き込んで、あまつさえ傷つけたって言うのか!
「ふざけるなよ?!そんな下らない色恋沙汰に亘を巻き込むな!
第三者に助けてもらわなきゃ、出来ないような二股なら最初からするな。バカらしい!!」
美鶴は少年に向かって吐き捨てるように、言葉を叩きつけた。
そして、次に少年の影に隠れて震えている少女に向かって叫んだ。
「・・・それにお前、女だからって亘に手を上げたのを何も無く只で済まされると思うなよ・・?
大体、殴るんならお前の前にいるこのバカの方だろう?・・・これだから、女は嫌いなんだ。
自己中心的で何も考えてない頭が空っぽの奴が多すぎる」
美鶴のそのあまりの言葉に、少女は本当に泣き出してしまった。
もう一人の少女はとっくにこの場から逃げ出していていなかった。
少年は一応少女をかばいながらも、どうすればいいのかわからないらしく只オロオロとしていた。
「美鶴っ!言い過ぎだよ!」
まだ頬をハッキリと赤くしたまま、それまで黙っていた亘が美鶴のすぐ横に飛び出してきて美鶴を静止した。
「亘」
「本とに只の誤解だったんだから。・・・その子もちょっと興奮して思わず手が出ただけだよ!
美鶴がそんなに怒る事無いってば!」
美鶴は大きく目を見開くと、更に顔をしかめて言った。
「こんなバカな奴らに巻き込まれて、怪我させられたんだぞ?平気だって言うのか?!」
「だからって、そんな言い方は言い過ぎだよ!・・・別に美鶴がそんなに怒る事じゃ無いじゃん?」
美鶴は亘のその言葉を聞いて、呆然と一瞬立ちつくすと次に悲しそうな、辛そうな顔をして、亘を睨みながら怒鳴りつけた。
「ふざけるな!お人好しも大概にしろっ!」
そう言って踵を返すと、振り返らずに足早に去っていった美鶴を亘は何が起きたのか把握できないまま、しばらくのあいだポカンとして見ていた。
結局、そのまま夏休みに入ってしまった為、二人はしばらく会わない日が続いた。
美鶴の方からは何の連絡も無く、亘もなんとなくあの別れ方が心に引っかかっていて自分から連絡できないでいた。
とりあえず仕上げると約束した課題を黙々とこなしながら、ふと手を止めて机に突っ伏しては考えていた。
──美鶴はどうして、あんなに怒ったんだろう・・・?
確かに彼らのした事は子供っぽくてあきれるようなことだったし、はずみとは言え、手を上げたことは良くない事ではある。
でも、自分が殴られたわけでも巻き込まれたわけでもないのに、美鶴のあの怒り方も尋常とはいえなかった。
それに最後の方はどちらかと言うと、亘の言った言葉に悲しそうな顔をしたような気がした。
──自分は何か美鶴の気に障るようなことを言ったのだろうか。
「せっかくの夏休みなのに・・・」
こんな風にしている間にも時間はどんどん経つのだ。二人で過ごす時間はどんどん減っていく。
亘はガバ!と勉強机から跳ね起きると、部屋を飛び出した。
「あら!亘くーん!」
走りながら美鶴のマンションに向かう途中で、買い物からかえって来た美鶴の叔母に会った。
笑いながら自分に手を振る叔母に駆け寄ると、亘は息を切らしながら聞いた。
「あ、叔母さん・・・美鶴は・・・美鶴は家ですか・・・?」
「え?美鶴?さっき散歩するとか言って外行ったわよ。・・・なんか最近、アイツ機嫌悪いのよね。
亘くん、なんか知ってる?」
亘は息を整えながら、とぎれとぎれにこの間の出来事を話した。
「・・・ハ~ン。成る程ね」
「・・・確かに、良くない事だったんだけど別に美鶴がそこまで怒る事でもない気がして・・・」
「何言ってるの?そりゃあ、美鶴も怒るわよ。決まってるじゃない!」
「え・・・?」
「亘くん、これが逆でもし美鶴が殴られてるとこ、亘くんが見たんだったらどうする?」
亘はパチクリと目を見開くと、首をブンブン振りながら即座に言った。
「ええ?!ダメ!なんですか?それ!そんなのゼッタイ許さな・・・い・・」
言い終わるか終わらないかの内に自分の言った言葉にハッとして、亘は目を瞬かせて俯いた。
「ね?」
叔母は優しく微笑むと、そっと亘の肩に手を置いて囁いた。
「そういう事。・・・・どんな理由であれ、美鶴は誰かが誰かを傷つける事を人一倍嫌がるわ。
だからそれが亘くんなら尚更よ?」
そして、背中をポンと叩くと晴れやかな歌うような声で叔母は告げた。
「多分、美鶴は三橋神社にいると思うわよ?いってらっしゃい!」
三橋神社に着くと、美鶴はベンチに腰掛けて本を読んでいた。
亘はおそるおそる近づいて、そっと声をかけた。
「あの・・・美鶴」
美鶴は本から顔を上げないまま、ぶっきらぼうに返事を返してきた。「・・・何?」
「え、と・・その、この前はゴメン・・・心配して怒ってくれたのになんか僕、逆に美鶴を怒らせるような事言ってさ・・・」
亘は口をもごもごさせながら言った。
叔母と話して美鶴の気持ちは痛いほどわかったのだけれど、かと言ってなんと美鶴に言えばいいのかはまだ良くわかっていなかった。
とにかく、美鶴が自分を心配するあまりあれだけ怒ってくれた事に対して、ありがとうと言いたいのだがどう言えばいいのかわからないのだ。
「え、と・・・え、と。これからはあんな事無いようにするから。だから・・・あの」
しどろもどろになりながら一生懸命言葉を紡ごうとしていたら、ふと気づくとベンチに座っていたはずの美鶴がすぐ目の前に立っていた。
美鶴の綺麗な、でもどこか切なげな瞳がジッと自分を見つめていた。
亘が言葉を続けるより早く、美鶴はふわりと両手を伸ばしてくると亘をぎゅっと抱きしめていた。
「え、わ、わ・・・?」
「俺は亘が傷つくのを見るのはゼッタイ・・・嫌だ」
美鶴の行為に顔を真っ赤にし始めていた亘は、美鶴のその辛そうな声を聞いて目を見開いた。
「亘が傷つくのはゼッタイ嫌だ。亘が傷つくのはゼッタイ・・・ダメだ」
少しだけ震えているその肩に、亘はそっと手を伸ばした。幼い子供がまるで駄々をこねるような言い方で美鶴は続けた。
「・・・美鶴」
「ダメだダメだ・・・ゼッタイ、ダメだ・・・」
「うん・・・ごめん。わかったから・・・」
「・・・本当に?」
「うん。・・・約束する」
そう言って亘は優しく優しく微笑むと、小さな子をあやすように、震えている美鶴の耳元にそっとかすかなキスをした。
「う~・・・美鶴ぅ、やっぱり課題は全部やってからでないと遊びにいっちゃダメなの・・?」
「そういう約束でした」
「ううう~・・・鬼ィ・・・休みが終わっちゃうよぉ・・・・」
「だから、早く終わらせればいいんだろ?ホラ!頑張ってやる!」
「ふぇーん・・・」
次の日。美鶴のうちの部屋で二人は一緒に夏休みの課題に取り組んでいた。
自分の分をサッサッと終わらせた美鶴の横で亘は遅々として進まない課題に四苦八苦していた。
この分では何時になったら、亘の望む休みを過ごせるかわかったものではない。
涼しげな顔をして、文庫本を呼んでいる美鶴を睨みつけながら叫んだ。
「えーい!もう!少しは手伝ってくれたっていいじゃないかぁ!!美鶴のバカーッ!!」
美鶴は文庫本から顔を上げると、チラッと思わせぶりな顔をして少しだけ笑いながら言った。
「亘が昨日、俺にしてくれたこともう一度してくれるんなら、ちょっと手伝ってもいい」
「へ?昨日?」
目を真ん丸くしている亘に美鶴は自分の耳元に人差し指をやるとチョンチョンと指差した。
それが何を意味するか気づいた瞬間、亘は真っ赤になって後ずさっていた。
美鶴はニッコリ微笑むと今度は人差し指を自分の口に当てて、亘に近づいてきながら囁いた。
「ついでに言うなら、こっちにしてくれるんなら全部手伝ってもいい・・・」
「バッ・・・!な、何言って・・・ちょ・・・み、美鶴?・・・な、なになに?!
え、え・・ち、近づきすぎ!近づきすぎーーっ!!わぁっ!美鶴ってばーー!!」
外では青い空と白い雲の下、ミンミンゼミが大合唱をしていて。
思春期少年の二人の夏は始まったばかり。
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