「美鶴っ!」
美鶴の名を叫びながら、亘は飛びつくように美鶴に抱きついた。
「美鶴美鶴美鶴・・・美鶴」
ポロポロポロポロ涙を流しながら、きつくきつく抱きしめながら何度も何度もその名を呼んだ。
「亘・・」
亘の肩口に顔を埋めて、美鶴も亘を抱きしめ返す。深く深く目を閉じて亘のぬくもりを全身全霊で感じられるように。
ずっと欲しかったぬくもり。この腕にずっと抱きたかった、自分にとって大切な暖かさを何よりも感じることが出来るように。
「・・あ、会いたかった・・美鶴、会いたかった会いたかった会いたかった・・・」
「・・・うん」
しゃくりあげる亘の背中をさすりながら、美鶴は優しい声で応えた。
「・・・も、もう・・か、とおも・・た。・・会えないかと思った・・あえないかとおもった・・」
「・・・うん」
美鶴はゆっくり顔を上げる。泣いている亘の頬をその手で包むと額にそっと口付けて言った。
「俺も会いたかった。・・・・死ぬほど死ぬほど・・・亘に会いたかった・・・」
美鶴のその言葉を聞いて、亘はかすかに目を瞬かせる。抱きしめあっていた体を離してお互いの瞳を覗き込んだ。
嘘偽りのない色をたたえている、お互いの瞳を二人はしばらく見ていた。そしてやがて、まるで体の力が抜けたかのように二人は微笑みあった。
「・・・ここ、どこなんだろ?」
亘が呟くように問い掛けた質問に、美鶴がゆっくり口を開いた。
「亘の心が生んだ幻影の世界・・・そして死と生の狭間の・・・世界だ」
え・・・?
僕の幻影・・?そして・・死と生の・・・狭間って・・・
亘はふと思い出して弾けたように顔を上げて、叫んだ。
「あ、あの、女の子!・・・さっき僕の腕の中で・・女の子が・・女の子が・・・死んじゃったんだ・・・」
亘は俯いて唇を噛む。また涙が溢れそうになってきた。
助けられたと思ったのに。・・・助けてやれなかった。助けることの出来なかった自分の不甲斐なさに。
「違う」
キッパリとした美鶴の声に亘は顔を上げる。
「違うよ。そうじゃない。その女の子は死んだりしてない。ちゃんと助かってる。生きてるよ」
「・・・え、でも・・」
「さっきも言ったろう。ここは亘の心が生み出した、幻影の世界でもあるって。
・・・現実の世界ではちゃんとあの女の子は助かってるんだ。・・・亘が助けたんだよ」
その言葉になんとも言えない安堵感を感じて、亘は大きく目を見開きながらそれでもまだ、半信半疑な気持ちで美鶴を見ていた。
美鶴はそんな亘を優しく見つめながら、続けた。
「亘・・・その子を腕に抱いていた時・・・他に何か、感じなかったか?・・・」
あ・・・
泣いている子供・・・傷ついた・・・子供。
動かなくなった目の前の白い塊をどうする事も出来なくて・・・どうすればいいかわからなくて・・・心がボロボロに裂けてしまった子。
・・・一人にしないでと置いて行かないでと・・何もない・・・空(くう)に向かって叫んだ子。
大事な大事な妹を・・大切な大切な家族を一瞬にして失ってしまった子。
亘は知らずに美鶴の手に自分の手を伸ばし、その手を強く握り締めた。
離れないように離れないように、そこから溶け合ってお互いが決して離れることのないようにと願うように。強く強く。
美鶴は亘のその姿を見つめながら、嬉しそうな悲しそうななんとも言えない表情を浮かべながら、そっと話し始める。
「・・・人は最期を迎えようとすると、自分の一番望むことを成し遂げようと強く願うものなんだ・・・」
亘は顔を上げる。美鶴が何を言おうとしてるのか掴みかねて、目を瞬かせた。
「亘の・・・一番望むことは・・なに?」
美鶴のその一言に。そのただ一言の問いかけに。それでも亘は返事を返していた。躊躇いもなく、戸惑いもなく。すぐに。
まるで自分の中にその答えは生まれる前から決まっていたのだと言うように、すぐに口から溢れ出た。
まっすぐ美鶴の瞳を見つめながら。
「・・美鶴が幸せであることだよ」
美鶴の琥珀の瞳が大きく震えた。亘は静かに、そして深く目を閉じながら続けた。
「美鶴が幸せであること・・・アヤちゃんや、叔母さんや・・・
カッちゃん、宮原、みんなで一緒に笑って・・・一緒に過ごして笑って、泣いて・・・美鶴がもし、苦しくなったとき・・哀しくなったとき・・その時、その時には。
・・・いつだって傍に・・すぐ傍に僕がいられることだよ・・・」
そう。
それが望み。僕の。三谷亘の。何よりも何よりもの望み。
だから。だから知らねばならなかった。自分自身も味わわなければいけなかったのだ。
死への恐れ。死への絶望。
それを他人に対して自分がもたらしてしまった事への深い深い後悔、救えなかった命への畏れを。
贖わなければならない贖罪の想いを。
美鶴と同じものを。
亘も。亘自身が感じなければいけなかったのだ。そうでなければこの深い闇を共に背負うことなど出来はしない。
「僕は・・いままで、本当には美鶴のこと・・・わかってなかった・・」
亘はゆっくり目を開けるとまっすぐ美鶴を見た。その何よりも澄んだ、闇に浮かぶただ一つの星のような輝きを持つ瞳を美鶴は見つめかえす。
「一緒にいる・・傍にいるっていいながら・・・美鶴の苦しみも悲しみも何ひとつわかってなかったんだ。
・・いや、わかろうとしないで、逃げてたんだ」
亘は美鶴の手を握り締める。美鶴もその手に力を込めた。
「もう、逃げない」
亘はその瞳にもう、涙を浮かべない。そのかわりに強い意志を。光り輝く漆黒の瞳になんびとも変える事の出来ない堅い決心の色をたたえていた。
かつて幻界で、その小さな体で小さな両手で全てのものを守り通した時のように。
そして繰り返す。その言葉を。
もう、何度伝えたかわからない。けれど何度でも伝えなければならない真実のその言葉を。大切な言葉を。
「美鶴が好きだから」
多分。それが全ての真実だ。そして全ての答えだ。
それがあればいいのだ。
「大好きだから大好きだから・・・大好きだか、ら・・・・」
言葉が溢れる。伝えきれない思いが溢れる。自分の全てが溢れ出してどうすればいいのかわからないくらいに。
だれかをこれほどまで想えることが、これほどまで想える相手が自分に存在することが、嬉しくてそして哀しくて、そして・・・
何よりも何よりも幸せで・・・どうすればいいかわからないくらいに。
美鶴は微笑んだ。
この暗闇の中にそこだけ天の光が差し込んだかのように。荘厳に。凛然と。
そしてゆっくりと両手を高く掲げて、そっとその手で亘を包み込む。
自分の腕に自分の胸の中に、大切な愛しい宝物を仕舞い込むように。
そっと。そっと。
「亘・・・」
亘も美鶴を抱きしめ返す。大きく両手を広げてその存在を全て自分の中に受け止められるように。
抱きしめられながら亘は美鶴がなにか呪文のような言葉を小さく呟いてるのを聞いた。
それを疑問に思う間もなく、美鶴に問い掛ける間もなく、気がつけば大きな光と大きな風が二人を包み舞い上げていた。
「ありがとう」
それが、その時亘が聞いた美鶴の最後の言葉だった。
自分を抱きしめる美鶴の手の力を痛いほど感じながら、触れ合った体の熱さをこれ以上ないくらい感じながら、お互いがお互いの中に溶け合っていくのを感じながらそれでも亘は叫んでいた。
「・・・!?美鶴!・・・駄目だっ・・・」
違う!駄目だ!駄目だよ!
これは駄目だ。これはしてはいけない。
これをしてしまったらもう、会えなくなる。二度と美鶴に会えなくなる。
根拠はない、でも間違いないであろうその考えが亘の頭のどこかで弾け、亘に警戒を呼びかける。
自分の中で弾けたその考えに、とてつもない恐ろしさを感じながら。
──もう二度と美鶴に会えないかもしれないという、自分の命を失うよりも恐ろしいその考えに。
駄目っっ!!駄目駄目だ・・・・会えなくなるのは駄目!駄目だからっっ!
「・・みつ、美鶴・・・いやだ、駄目だよ!・・美鶴・・・みつる・・・ミツルッッーーー!!」
目の前に真珠のような雫がひとつ、煌きながら舞っていくのが見えた。
その雫越しに美鶴の微笑む瞳が見えた。何よりも綺麗で大切にしたい、その微笑が静かに溶けて消えていくのが見えた。
もう一度美鶴の名を叫ぼうと亘が口を開いたとき、亘は今まで感じたこともない、とてつもなく眩しい光と暖かさを全身に感じた。
受け止めきれないほどのその光が自分の中で大きく弾けたことを感じたと同時に、亘は自分の手の中から優しいぬくもりが。
何よりも自分に必要なぬくもりが消え去ったことを知った。
──わたるわたるわたる・・・ワタルワタルワタル・・・・
どこかで・・・遠い遠い場所で・・・綺麗な声が優しい声が・・・自分の名を呼ぶのがわかる。
──ありがとう・・・ワタル・・・ありがと・・・う・・
溢れる涙と共に亘はゆっくりと目を開いた。
「亘っ?!」
口に両手を当て、驚き、涙を流し始めた母の顔がぼんやりと視界に入ってきた。
白い壁。白い天井。自分のすぐ横にぶら下がっている点滴の管が見えた。
・・・・ここは、病院・・・?
「気がついた・・・気がついたのね・・良かった・・良かった!」
ナースコールで呼ばれた看護士が驚きながら、また、取って返しバタバタと走って医師を呼びに行く。
入れ替わりにまるで飛び込むように宮原とアヤが病室に駆け込んできた。二人とも目を真っ赤にしている。
「三谷!!」
喜びながらも動揺している亘の母にアヤは声をかけ、自分も泣きながら付き添って支えていた。
宮原は亘の傍まで来ると、その手を掴んで叫んだ。
「・・バカヤロ・・バカヤロー・・・心配かけやがって・・」
そう言ってパタパタと涙を掴んでいた亘の手の上に、零した。宮原とアヤは事故以来、ずっと毎日亘の様子を見に来ていたのだ。
宮原のその姿を見ながら、亘は小さな小さな声で呟いた。
「・・・美鶴に会ったよ・・」
え?と宮原が顔を上げる前に、亘は目を閉じ涙が一粒、頬を伝っていった。
事故から二日目の夕方。亘は危機を乗り越え、覚醒した。
・・・・医師は、奇跡だといった。
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