寒い・・・
とてつもない寒さを感じて亘は目を開ける。
暗い・・・
果てしの無い冷気と濃い闇のなかに亘はいた。どうやら横たわっているらしい体はひどく重くたて指一本、動かすことすら出来なかった。
ここはどこだ?・・・
自分はいったいどうなってしまったんだろうか。
たしか、目の前で車に轢かれそうになった少女を咄嗟にかばって・・・
そうだ。そしてその車に自分が轢かれたのだ。
かばった少女は大丈夫だったはず・・・助かったはず・・・
そう思いながら意識が途切れたのだ。
亘はゆっくりと瞬きをした。それでさえ今の自分にはやっとの動きだった。
そして、ふと思う。
もしかして自分は死んだのだろうか?・・・
ここは、この暗い世界はひょっとして死の世界なのだろうか。
・・・ひょっとして・・自分はもう死者・・なのか?
思い立ったその考えに亘は悲鳴を上げたくなった。
その瞬間、動かなかった体が電流を受けたように跳ねた。亘は大きくひとつ息をつく。心臓が早鐘を打つようにバクバク言っていた。
亘はそっと指を動かした。・・・動く。・・・今度は、ぎこちないながらも全ての指が動いてくれた。
亘はホッとしたようにもう一度、大きく息をした。上半身を起こし、ゆっくりと闇に目を凝らしてみた。
なにもない。何も見えない闇の世界。
亘はまた悲鳴を上げたくなる。両の手で自分を抱きしめ、ぎゅっと目を瞑った。
そして次に自分の足を誰かが掴む感触に、大きく目を見開いた。亘は自分の足元を見る。
闇の中、なぜかそれだけがハッキリと見えた。
自分の足首を掴む少女。
血まみれになりながらうずくまっている少女。・・・亘が助けた筈の、まだ幼い少女の姿がそこにあった。
「・・・!!」
亘は声も出せずにその少女に手を伸ばした。血まみれの体を起こして自分の腕の中にそっと抱きかかえた。
「・・しっかりして・・!」
亘の呼びかけにも少女は何の反応も示さない。先程までなんとか亘の足を掴んでいたはずのその手も、今はもう力なくダランと垂れ下がっていた。
少女の顔から見る見る血の気が引いて、体温が確実に下がっていくのがわかった。亘は思わず、身震いした。
いま、たったいま。自分の手の中で着実にその命の火を消そうとしている少女に、そしてそれをどうする事も出来ずにただ見ているだけの自分に。
その事実にその現実に。
心の臓まで凍りつくような恐怖を感じていた。
カタカタと震え始める自分の体をどうする事も出来ずに、亘は大きく見開いたその瞳から涙をポロポロこぼした。
なんで・・・?どうして?どうしてどうして・・・・どうして?
怖い・・・こわいこわいこわい・・・怖いよ・・・
アヤに良く似た少女。髪を二つに束ねたまだ幼い少女。
不意に亘の頭に、思考の中に、何かが滑り込むように流れ込んできたのを感じて亘は弾けたように顔を上げた。
その思考は一瞬で亘の体中にシンクロして走馬灯のように、脳裏にある映像を浮かび上がらせた。
──アヤ?・・・アヤ・・アヤ!
ライトを点滅させるパトカー。サイレンを鳴らす救急車。ざわめく人々の声。
──おにいちゃん・・・おにいちゃん・・・早く帰って来てね・・・
誕生日・・・おにいちゃんの・・・誕生日だから・・・アヤ、待ってるからね・・・
次に目の前に白い塊が見えた。無機質な台のようなものに横たわっているそれは・・・
白い布をかぶせられ、その端から小さな幼い手がダラリと下がっているそれは・・・
誰かの手が小さな幼いもう動かなくなったその手をそっと掴む。全身に白い布をかぶせられ、もう二度と動かなくなった幼いその手を握り締める。
──父さん・・?母さん・・?
そしてゆっくりと映像が動き、その先にもう二つの──今度はいま見ていたのより遥かに大きなその白い布をかぶせられた塊──に視線は止まった。
ピクリとも動かないその塊にその手は伸びる。そして塊に触れる前に手はゆっくりと下ろされた。
──ど、う、し、て・・・・?
なにがなにがなにがあったの?どうしてどうしてどうしてこんなことになったの・・・?
──アヤ、アヤ、どこいったんだ・・?
だって、そんなはず無いだろ?元気だったじゃないか。早く帰って来いって言ったじゃないか。
・・・・おにいちゃんの誕生日を一緒にお祝いするんだって・・・言ったじゃないか・・・
──父さん、母さん昨日まで傍にいたじゃないか。・・・笑ってたじゃないか。
・・・明日は美鶴の誕生日ねって・・・頭を撫でて・・・くれたじゃないか・・・
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして・・・・?
「一人にしないで!」
亘はハッとする。今、叫んだのが自分の声だとわかるまでにしばらくかかった。
止め様も無いくらい涙が次々と溢れていた。ポロポロポロポロ零れる涙が自分の腕の中にいる少女に降りかかった。
・・・・・ああ・・
・・ああ・・
亘はぎゅっと目を閉じる。腕の中の少女を抱きしめながら。もうすっかり動かなくなったその少女を抱きしめながら亘は深く深く目を閉じた。
──美鶴は・・これだけのものを・・背負っていたのか・・・
・・・抱えきれないほどの闇を・・これほどの悲しみを・・・背負っていたんだ・・・
そして、目の前で命が消しさられていく恐怖を。自分の手で命というものを奪ってしまう恐ろしさを。
・・・しかもそれはあまりにも多くの数だった。
その恐怖をその罪を誰よりも誰よりも知ってしまったのだ。
それを思い出した時。それを全て知ってしまった時。・・・美鶴は本当は気が狂いそうだったのではないか。
いま、亘はたった一人の少女の命が消えかかってることにさえ、これだけの恐怖を感じているのだ。これほどの絶望感を味わっているのだ。
アヤを助けるためとはいえ、願いを叶えるためとはいえ。そしていま、運命の歯車が少しだけ変わって傍にアヤが在る事になっていても。
いや、だからこそ間違いなく自分が犯してしまったその罪に。一度味わった大切なものを失う絶望感に。誰よりも誰よりも本当は。
小さな小さな子供のように・・・これ以上ないくらい・・怯えていたのだ。
──なのに。
──なのに・・・なのに・・・
「・・・わかってなかったんだ」
亘は絞り出すように声を出した。かすれたその声に、涙と共に溢れ出したその言葉に、また更に涙を溢れさせながら。
「・・・美鶴・・・美鶴美鶴・・・ミツル・・ミツル・・」
言葉では傍にいると言いながら。大好きだと言いながら。離れない。受け止める。共に背負うと言いながら。
自分は・・・自分は・・・本当は何ひとつ・・・何ひとつ・・わかっていなかったのだ。
・・・・何も受け止めてなんかいなかったのだ。
美鶴が現世で再び生きていくためには、どうしてもアヤが必要だった。なぜなら、それこそが美鶴の願いの根源だったから。
そしてラウ導師は言った。
──ワタル、お主が願ったから、望んだからミツルは現世に戻ることが出来たんじゃよ。
ワタルの願いの奥底に、女神に望んだ願いの中に、アヤと共に美鶴が自分と同じ世界に再び帰って来て欲しいと言う強い想いがあったから。
だから、美鶴は帰ってこれたのだと。だから再び共にいられるのだと。・・・そう言ったのだ。
いっしょにかえろういっしょにかえろういっしょにかえろう・・・・・
・・・・ミツル、一緒に帰ろう・・・
でもそれは正しかったのか。美鶴自身は本当にこうなることを望んだのだろうか。
こんな風に際限の無い罪の意識に。暗い闇に付きまとわれて生きていくぐらいなら、あのままアヤの魂と共に光になって溶けていく方がよほど良かったのではないか。
亘は亘自身のただのエゴで、美鶴を再び現世に招いただけなのではないのか。
少なくとも、美鶴の苦しみの何ひとつも理解していなかったいまの自分では、そう考えても仕方の無いことな気がした。
「ごめん・・・」ごめんみつるごめん・・・ごめんごめんごめん・・・
気がつけば、亘は一人きりだった。
腕の中に抱きしめていたはずの少女の姿は消えていた。
深い深い闇の中で。凍えそうなほどの寒さの中で。
亘は一人泣きつづけながら、その謝罪の言葉を告げる主の無いままに、ただずっと・・・その言葉を呟きながら・・・俯き、膝を抱えたまま泣いていた。
どれだけの長い時間そうしていたのか。
ふいに俯いて握り締めていた手に暖かいぬくもりを感じた。そのぬくもりはすぐに亘の全身を包むと、この暗い世界の中でそれだけが
確かな光の証であるように、優しく・・・そして力強く・・亘を抱きしめた。
いま、何よりも聞きたかったその声と共に。歌うような綺麗で優しいその声と共に。
「・・・なに、謝ってるんだ?」
亘は目を大きく見開いて、自分を抱きしめるその手の上に涙を一粒零した。
そして振り返る。ぎこちなくゆっくりとその声の主の方に振り返る。
以前も想った事がある。そう感じたことがある。
・・・こんなこんな綺麗な笑顔・・・見たことない・・・僕はいままで見たことない・・・
「美鶴・・・・」
亘は静かに微笑んだ。美鶴の手がそっと亘の頬に伸びて来て、ゆっくりと顔を寄せてきた。
そしてまだその頬に幾筋か光る亘の涙を優しく唇ですくうと、これ以上ないくらいの優しい微笑を浮かべて亘を見つめた。
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