その後、美鶴がゾフィと初めて出会った公園でいくら待っても二度と彼女に会うことは無かった。
美鶴はゾフィが指差した、施設があるのだという場所の方にも出向いてその施設を探してみた。
確かに施設はあった。
だがそこにゾフィと言う少女の存在は無かった。
いくら尋ねてみても・・・少女の存在のかけらさえも・・・名前の断片さえも、そこの施設の職員から聞くことは出来なかった。
美鶴は尋ねた施設を後にし、最後にゾフィと歩いた公園に向かってみた。
そこにもやはり、ゾフィの姿はあるはずも無く、美鶴は只一人その公園をそぞろ歩きながら空を見上げた。
不意に現れた少女は、現れたときと同様まるで幻のようにその存在を掻き消してしまった。
美鶴の心の中に一粒の確かな種を蒔いたまま。
亘への想い・・・亘への・・確かな祈り・・
涙と共に溢れ出した、偽ることの出来ない亘への必然の・・・愛。
──帰りなさい、美鶴・・・愛しい人のところへ・・・
もう、迷子になっちゃ・・・だめよ・・・──
もう、ゾフィがこの現世に本当に存在したかどうかはある意味、どうでもいいことなのかもしれなかった。
只、確かなことは彼女は間違いなく、自分の運命がどんなものであっても受け入れることの出来る強い心を持っていたのだろうと言うことだ。
美鶴と会っている間、彼女はいつも笑顔だった。一度として悲しみや苦しみを感じさせることは無かった。
例えその背景にどんなに、つらいものがあったとしても。
幻界で、他の誰よりも自分が傷つけたはずの少女は力強い微笑みと共に、気高い笑顔と共に美鶴の前に現れたのだ。
・・・なら、美鶴に示されていることはひとつだろう。
・・・彼女が伝えたかったことはひとつだろう。
──進みなさい
──あなたは進まなければいけない。たくさんの人の命を奪った代償として。その罪をあがなう為に。
そしてそして・・あなたと共にその罪を背負うと誓った魂の半身と共に・・・
愛しいもうひとつの魂と・・どうすれば永遠に共に歩めるのかを・・・探し出さなくてはいけない。
そこに自己があってはいけない。
けっして暗い闇の自分に飲み込まれてはいけない。
悩んだとしても、自分の心の奥底に確かにそれが存在したとしても。・・・それに飲み込まれない強い意志をもつのは自分なのだ。
大切なら。
何よりも何よりも大切なもののためなら。それが出来ないはずはない。
嘗て幻界で美鶴はアヤを想うあまり。自分の運命を変えたいと願うあまりに・・・黒い自分に飲み込まれ、打ち勝つ事は出来なかった。
それは亘のように『その自分』を愛さなかったからだ。
・・・受け入れようとしなかったからだ。
だから彼は現れる。美鶴の前に。美鶴の心の奥底を暴く為に。
──受け入れよう。
──そういう想いを持つ自分であるということ。亘を失うのが怖くて怖くて子供のように怯える自分がいることを・・・伝えよう。
大切すぎて・・・愛しすぎて・・・一歩間違えば黒い自分にさえ飲み込まれそうになる自分がいることを。自分である事を。
誰よりも誰よりも愛しい相手。亘自身に。・・・伝えよう。
そしてもし、それを知って亘が自分から離れていってしまうかもしれないとしても・・・
伝えなければならない事なのだ
・・・Wataru・・・ワタル・・・ワタル・・綺麗な名前ね・・素敵な名前ね
・・・ミツルとおんなじ響きの・・・とてもとても・・・綺麗な名前ね・・・
ゾフィの声がゾフィの笑顔が・・・今進むべき道を決めた、美鶴のかすかな微笑みに呼応した。
空を見上げる美鶴の髪を優しい風が撫でていった。
キュッ。
亘はマジックでカレンダーの日付を消した。美鶴がアメリカに行ってしまってからすでに3週間が経過していた。
その間、美鶴からはやはり一度として亘に連絡はなかった。マジックを手の中で弄びながら、亘は小さなため息をつく。
信じて待つと決めた。
これくらいの事で一度つないだその手が離れる訳はないのだと、信じる事に決めたのだ。
けれど。
つらかった。
日を負うごとに正直不安が募っていく。・・・美鶴はもう、戻ってこないのではないか・・・
そして、戻ってきたとしてその時、自分は美鶴に何をどう言ってどう応えればいいのだろう・・そんな不安もあった。
美鶴が大好きだと想う気持ちに変わりはない。共に歩みたいと思う気持ちに変わりはない。
でも、それをどんなカタチ・・どんな言葉で伝えればいいのか・・正直、亘はわからない。
宮原と話したとき、亘は自分の美鶴への気持ちがどんな物かをはっきりと確かめる事が出来た。
何よりも何よりも必要な相手・・自分が生きていく上でなくてはならない存在。
それが三谷亘にとっての芦川美鶴だった。
けれど。
・・・この気持ちは・・恋愛ではないのだ。・・・そして友愛とも違うのだ。
だからもし、美鶴の望んでいるものがカタチとして以前言った欲望というカタチを取るなら、亘はそれに応える事は絶対出来ない。
いや、してはいけないのだ。
それでは恐らく、美鶴の不安はこの後さらに増すだけだ。亘はそう確信していた。
大切なのは・・美鶴の背負っている物すべてを自分も背負う覚悟があることを伝えることだ。
美鶴の負っている暗闇をともに負う、本当の覚悟を自分もつけることなのだ。
もう、逃げたくない。もう投げ出したくない。
亘はそう思いながらもそれをどう行動に起せばいいのかまでは、まるでわからなかった。
「あれ?もう、こんな時間だ。しまったぁ!宮原との待ち合わせに遅れるっ!」
亘は時計を見ると、慌ててジャケットを掴んで家を飛び出した。
宮原とは美鶴がいなくなってから週に一回会っていた。
宮原が心配して連絡をくれるからなのだが、亘にとって今のこの状況で宮原の存在は有り難かった。宮原から事情を聞いたのであろう、カッちゃんもちょくちょく連絡を寄越してくれた。
嬉しかった。
小学生の頃からいつも一緒にいていつも一緒に何かをしていた僕ら。
一緒に笑って、怒って、遊んで、ふざけて、ケンカして・・・そして仲直りして・・
そのときと変わらない、二人がいつも傍にいてくれる。いつまでもこのままだと思っていた。
変わる事なんかないのだと思っていた。
でも時は廻る。
健やかにその枝を天に向かって伸ばす樹木が成長を止めることはできない。
僕らは変わっていく。僕らは大人になってゆく。そうでなければいけないのだ。
そしてその中で変らない確かな物もある。それは自分の気持ちだ。
・・・美鶴への確かな想いだ。それだけは何があっても変わらない。
永遠に。永久に。間違いなく。
──会いたいよ・・・美鶴。
小走りに駆けて待ち合わせの場所に急ぎながら亘は空を見上げる。
この空を美鶴もまた見上げているだろうか。・・・自分に会いたいと思っていてくれるのだろうか。
どんなに耳を澄ませても、どんなに目を凝らしてもいまの美鶴の声が美鶴の笑顔が、亘に届く事はなかった。
「あ、」
信号を渡る交差点の向こうの待ち合わせ場所に立っている宮原が見えた。
「宮原ー!」
亘は叫びながら、信号の前に立ち信号が青に変わるのを待つ。
宮原が自分に気づいて笑いながらこっちに手を振るのが見えた。
それを見てその次の瞬間。亘はまるでスローモーションを見るようにその場面を目にしていた。
小学五年生の時、初めて会った時のアヤとおんなじくらいの年の少女が
──髪の毛もそのときのアヤとおんなじに二つに束ねて──
自分と同じく信号が青に変わるのを待っていたその幼い少女の方に、ガードレールを跳ね飛ばし、ものすごいスピードで迫ってくる車があることに亘は気づく。
驚愕で見開かれた少女の瞳と、動く事も出来ずに只、固唾を飲む周りの人々を同時に見ながら。
亘は気が付けば少女の体を自分の体で包んでかばっていた。
「三谷ーーー!!」
遠くで叫ぶ宮原の声を聞いたと思ったとたん。激しい衝撃が亘を襲った。
真っ白になった頭の中で・・・ぼやけていく意識の中で亘は誰かが自分の名を呼んで泣いている声を聞いた。
わたる・・・わたる・・ワタル・・亘・・・
幼い幼い小さな声。ずっとずっと前に聞いた寂しい寂しい迷子の声。
ああ、この声・・この声は・・・
一人ぼっちはさびしいよ・・離れないで・・傍にいて・・
だれか・・誰か傍にいて・・・ぼくを・・ひとりにしないで・・
「・・・泣かないで・・」
泣かないで泣かないで泣かないで。僕はいるよ。傍にいるよ。いなくなったりしない。
・・・美鶴の・・傍にいるよ。だから。
「泣かないで・・・」
あたりに救急車のサイレンが鳴り響き、自分の腕の中で身じろぎながら、どうやら怪我は負ったらしいけれど生きているらしい少女の姿を見て、そして宮原が人ごみを掻き分け、駆け寄ってきて自分の手を取ったことを感じながら亘は静かに目を閉じた。
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