美鶴が起きられるようになるまでゾフィは毎日やって来た。
食事から何からあれこれ世話を焼くので美鶴はすぐに回復した。
気が付けば日本からアメリカに来てもう二週間経っていた。最初の一週間以外、美鶴はアヤに連絡を入れていない。
臥せっていたため仕方ないのだが、おそらく相当心配してるだろう。
アヤを無駄に心配させるのは自分の本意ではない為、今日こそ連絡を入れようと美鶴は起きて外に出る準備をした。
「あら?出かけるの」
「ああ」
ちょうどやって来たゾフィとドアの外で出くわした。ゾフィはニッコリ笑うと美鶴の横に並んだ。
「じゃ、わたしも一緒にいっていい?」
「ダメって言っても来るんだろ?」
「うん!」
そうしてゾフィは美鶴の手を取るとそっとつないできた。美鶴が黙ってゾフィの顔を見ると少しだけためらいの表情を見せた。
けれど美鶴が何も言わずにその手を握り返すとホッとしたようにまた微笑んだ。
「・・一度聞いてみたかったんだけど」
「なに」
「ミツルってこっちに何しに来てるの?」美鶴は立ち止まって苦笑する。
「だってそうでしょう?どう見ても学生の年なのにハイスクールに行くでなし・・・かといってワーキングホリデーに来てる外国人って訳でもなさそうだし・・・何しに来たの?」
ゾフィは小首をかしげながら聞いた。美鶴は再び歩き始めると日本語でポツリと言った。
「逃げてきたんだ」
「え?」
美鶴はゾフィの握っている手に少し力を込めて、ゾフィの方を見ると言った。
「ゾフィだって人のこと言えるのか?いつもいつもこんな時間に俺のところに来てるけど、学校はどうしたんだよ?パパやママは知ってるのか」
「パパもママもいないもの」
拍子抜けするくらいあっさりとゾフィは答えた。
「あっち」
そしてつないでいない方の手を伸ばし、少し先を指差す。
「向こうにあるわ。わたしのいる場所・・・子供たちの保護施設だけどね」
「保護施設?」
「・・・親や、大人たちに虐待された子が引き取られる施設よ」
「・・・・・」
ゾフィは表情も変えずに淡々と言った。
ゾフィ・・・美鶴が幻界で騙し、傷つけ全てを奪った少女、皇女ゾフィ・・
その少女と瓜二つのこの現世の少女ゾフィはこれまでどんな人生を歩んできたのだろう。
どんな思いを味わってきたのだろう・・・
美鶴にはひとつの確信があった。この少女はおそらく幻界で自分が傷つけた皇女ゾフィと・・おそらく同じ人物なのだ。
あの少女のこちらでの・・・現世での姿がこの少女なのだ・・・そして、おそらくゾフィがいままでもし、悲しみや苦しみの人生を歩んできたのだとしたら・・・それは全て自分のせいだろう。
・・・美鶴はそう思っていた。そう確信していた。
「・・・すまない」
ポツリと呟く美鶴にゾフィは不思議そうな顔をして答えた。
「どうしてミツルが謝るの?そんな事聞いたくらいで気にする事ないわよ」
そしてゾフィは美鶴の手をさらに力を込めて握り、優しく微笑んだ。
妹の携帯に連絡する為に電話局に行くのだという美鶴に、ゾフィはじゃあ、近くの公園で待ってるわと言って走っていった。
電話局でアヤの携帯に電話をかけ、連絡がついたとたん美鶴はアヤに涙声で怒鳴られ、続けざまの質問をされた。
元気なの?大丈夫なの?ちゃんと食べてるの?今までどうしてたの?いつ帰るの?
美鶴はひとつひとつに優しい声で答えながらも最後の質問には謝っていた。
「まだ、しばらく帰らないと思う・・・ごめんな」
「・・・お兄ちゃん・・・」
受話器の向こうでアヤが唇を噛みしめるのがわかった。美鶴は少しだけ顔を歪ませた。・・ごめんな、アヤ・・・ごめんな・・・
「お兄ちゃん・・・あのね・・」
「・・なに?」
躊躇いがちに切り出すアヤに美鶴は静かに応える。
アヤはひとつ息を吸い込むと決心したように美鶴に呼びかけ、ゆっくりとその名を響かせた。
「・・亘お兄ちゃんが・・・」
その名前を聞いたとたん美鶴の肩がピクリと震える。思わず受話器を握り締めた。
「お兄ちゃんから連絡が来たら・・言ってくれって・・伝えてって・・・アヤに」
言葉を震わせながらアヤが泣いてるのが美鶴にはわかった。
自分から伝えなければならないのが・・・直接、伝えられない亘のせつなさが、亘の想いが。
多分、今のアヤの声には共に重なっている。
「大好きだから」
その言葉の持つ甘い響きが静かに美鶴の鼓膜に届く。美鶴は目を閉じた。
「大好きだから・・お兄ちゃんが・・大好きだからって・・・」
受話器を握り締めたまま時を止めたかのように美鶴は深く目を閉じたまま佇んでいた。そして次の瞬間、電話を切った。
「ミツル!」
電話局から出て来た美鶴を見てゾフィが駆け寄ってきた。そしてふと立ち止まると美鶴の顔をじっと見た。
そして一瞬少し悲しそうな困ったような顔をする。
けれどすぐに今度は聖母のような慈愛に満ちた瞳でそっと美鶴に声をかけた。
「What is the matter?・・・Mitsuru?(・・・どうかしたの?・・ミツル)」
俯いていた美鶴が顔を上げる。目の前のゾフィに気づいて返事を返した。
「・・なにが?」
思わず日本語で返事を返してしまった美鶴にゾフィはさらに優しい微笑を浮かべて続けた。
「You cry・・・(泣いてるわ・・・)」
美鶴は目を見開く。頬に暖かいものが伝わっている。思わず自分の頬に手をやりながら美鶴は目を瞬かせた。
瞬く度に暖かい滴が自分の頬を伝うのがわかる。何度も何度も。
言われなければ気づかなかった。
でも確かに自分の頬を伝わっているその滴に・・・自分自身が驚きながら・・美鶴は何度も目を瞬かせた。
「Your tears are pure・・(綺麗ね・・)」
ゾフィがゆっくり手を伸ばし、そっと美鶴に近づいて顔を寄せ美鶴を抱きしめた。優しく優しく抱きしめた。
「Wataru・・・ワタル・・・そんなに綺麗な涙を流してるのは・・・その人のためね?ワタルのためね・・」
その名を聞くたび、その愛しい名が呼ばれるたび美鶴の瞳から水晶のような滴がこぼれ落ちる。
声も出さずただ流れるままに、瞳を瞬かせながら美鶴はゾフィに抱きしめられたまま泣いていた。
──わたる、わたるわたるわたるわたる・・・亘・・・
──会いたい・・会いたい、会いたい会いたい会いたい・・・そう想いながら。そう、願いながら・・・泣いていた。
──わたるわたるわたるわたるわたる・・・亘・・・会いたい。
「・・・会いたい」
言葉に出す事で、愛しい人の名を呼ぶ事で願いが全て叶うのなら何度でも繰り返すだろう。
願う事で想う事で・・涙を流す事で伝わるのなら一生分の涙を流してもかまわない。
今後幾度もの悲しみが自分を襲って、その時どんなに泣きたくてもたとえ一筋の涙を流せなくなったとしても。
涙を流す事でその人が守れるのなら。その人が幸福になれるのなら。・・・そして傍にいる事が許されるなら。
いま、自分は全ての涙を流し尽くしてもかまわない。
「・・亘に会いたい・・わたるわたる、わたる・・会いたいよ・・・」
亘の声がききたい。亘の笑顔を見たい。亘の体温を感じたい・・・亘に、亘に・・会いたい。
子供のように。ただの幼い迷子のように亘の名を呼び、泣き続ける美鶴を。
ゾフィは優しい優しい微笑を浮かべて、長い長い長い時間。そっとそっと・・・抱きしめつづけていた。
(大好きだから。・・・大好きだから。美鶴が・・・誰よりも誰よりも・・大好きだから)
遠い遠い遠い場所で、けれど想いは何処よりも近しい場所で。
亘の声が・・亘の笑顔が自分を包むのを。・・・涙を流しながら美鶴は静かに・・感じていた。
そして同時に聞いていた。天上から囁かれる、まるで天使の言葉のように語りかけるゾフィの言葉を聞いていた。
──帰りなさい。ミツル・・・帰りなさい。愛しい人のもとに・・
──・・・帰りなさい。
それからしばらくして二人は近くの公園を歩いていた。
もう日はだいぶ傾き始め、優しい穏やかな風が二人の髪をそっと撫でていく。
美鶴はこっちに来てからこんな穏やかな気持ちになったのは初めてだな、と思いながらその心地いい風に身を任せていた。
「ねぇ」
自分の前を歩いていたゾフィが美鶴を振り返りながら声をかけた。
「ワタルってどんな人?」
問い掛けられて美鶴は少し驚いた顔をしながらもかすかに微笑みながら答えた。
「お人よしで変な奴だ」
「変な奴?」
「ああ・・・転校してきてたった一人でいた俺に・・いきなり友達になろうって近づいてきた・・」
話しながら美鶴は思い出す。小学校5年の頃の自分と亘。
誰をも受け入れようとしないでいつも一人きりでいた自分に。・・・それでいいと思っていた自分に。
一人にしたくないのだと。ずっと一緒にいたいのだとまっすぐな瞳で近づいてきた奴。
「もう高校生のくせにすぐ泣くし、人の事で自分の事のように怒るし・・・口が下手でよく損をしてるし・・」
だけど。
だけど。
そう・・・だけど。
笑うだけで。
亘が笑うだけで。自分に向かって笑顔になるだけで。そばにいるだけで。いてくれるだけで。
「・・・幸せなんだ」
・・・幸福なんだ。俺は・・俺はそれだけで・・幸せなんだ。何よりも何よりも。
・・・幸福なんだ。
「大好きなのね」
微笑みながら自分を見てそういうゾフィを美鶴は見つめ返す。
そしてなんの躊躇いもなくなんの戸惑いも無く美鶴はそっと・・・頷いた。・・力強く肯いた。
それを見てゾフィは・・・今まで会った中で一番優しく・・・一番綺麗な・・見とれるほどの微笑を浮かべて美鶴を見た。
そしてそっと小さな子供をさとすように。穏やかに安心させるように。
別れ際、走りながら美鶴の方を振り返り、大きな声でゾフィは言った。
「もう、迷子になっちゃダメよ」
そうしてその日からゾフィが美鶴の前に現れる事は無かった。
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