ヒヤリ。
額に何か冷たいものを感じて美鶴は目を開ける。
「気が付いた?」
目の前に自分を覗き込む少女、ゾフィの姿があった。
一瞬の間の後、美鶴は目を見開いて起き上がろうとする。けれどすぐに目の前が揺れて再びベットの上に倒れ込んだ。
そして自分の額に感じた物はどうやら水に濡らしたタオルをゾフィがのせた為だとわかった。
「無理しちゃダメよ。熱があるんだから。たいしたもんね。この寒くなってくる時期に暖房も付けないで寝てて、しかもこの一週間位ほとんど何も食べてないでしょ?キッチンが空っぽだもの」
あきれたように言いながらゾフィは狭いキッチンに行き、トレイの上に湯気を立てている小さな皿を載せて戻ってきた。
「はい。スープよ。このくらいなら口に出来るでしょ?」
目の前に置かれたスープ皿をしばらく見つめながら美鶴はようやく口を開いた。
「・・・・どうして?」
「昨日も一昨日もあなた、公園に来なかったからどうしたのかな?と思ってこの辺の人に聞いて捜してみたの。
綺麗な若い東洋人っていったらすぐにここがわかったわ」
ゾフィは美鶴の寝ているベットの横に椅子を引っ張ってくると腰掛けて続けた。
「それで、ここ教えてもらって管理人のおばあさんに聞いたらこの2日くらい見てないとか言ってるし・・・まさかと思って部屋に来て見たらカギもかけないであなた、ベットで倒れて熱出してるし」
ゾフィはズズイッと顔を近づけると怒ったように言った。
「わたしが来なかったらどうなってたと思うの?」
しかし次には柔らかいふわりとした微笑を浮かべると優しく言った。
「まぁ、いいわ。まずは食べて」
美鶴はスプーンを取るとゆっくりスープを口に含んだ。一口含むごとに心が温まるような気がした。
「美味しい?」
「・・・美味しい」
ゾフィが嬉しそうにまた微笑んだ。
その微笑を見ながら美鶴は食べることなんてずいぶん忘れていたなと、こっちに来てからの日々を振り返る。
文字通り忘れていたのだ。逃れるように日本を後にしてからの美鶴は生きていく為に必要な全てのことを忘却していた。
向こうにいる時も何かに夢中になるあまり寝食を忘れることが良くあり、その都度亘に叱られた。
──もっと、体のこと考えなきゃダメだ!病気になったらどうするんだよ!
まるで自分の事のように半泣きになりながら・・・亘はよく・・怒っていた。
「ずっとうわ言で誰かの名前を呼んでたわ・・・」
囁くようなゾフィの言葉に美鶴は静かに顔を上げる。
「わたし、東洋の名前ってよく知らないからちゃんと聞き取れなかったんだけど・・Mitsuruとよく似た響きのきれいな名前だったわ」
確かめる様に問いただすようにゾフィは目を細めながらそっと美鶴に聞いた。
「・・・その人があなたの大切な人・・?」
カチャン!
スプーンと皿をベットの横のサイドテーブルに放るようにのせると美鶴は毛布にもぐりこみ、無機質な声で言った。
「悪かったな・・もういいから・・」
ゾフィは皿をキッチンに持っていき、ドアに向かいながら今までの態度とは打って変わった年相応の幼い少女の声で、おねだりするように問い掛けた。
「明日も来ていい?」
美鶴は向こうを向いたまま何も言わなかった。「明日も来るわ」
ゾフィはそう言うと静かにドアを閉めた。
暗い暗い何もない場所。
地面があって自分はそこに立っているのか、それとも何もないところに浮いているのかそれさえもわからない深い闇。
その中に美鶴はただ一人きり佇んでいる。
そしてふと足元を見る。何も見えない筈の闇の中蠢いている者たちがいた。
それらは美鶴に手を伸ばす。焼け爛れた手。焼け焦げた顔。抜け落ちた髪・・・亡者たち・・・
・・・美鶴が幻界で殺めてしまった人々。・・・その亡者たち・・
──オマエハ、ジブンノネガイノタメ二・・・ジブンノヨクボウノタメニ・・ワレワレヲ・・・コロシタ・・
──ナンノツミモナイ、オマエ二ナニヲシタワケデナイワレワレヲ・・・ジブンノヨクボウノタメダケニ・・・コロシタノダ・・
亡者たちは美鶴を取り囲み手を伸ばして来る。美鶴は瞬きもせず、その手を振り解こうともせず・・ただ佇んでいる。
そうだ。俺はアヤを助けるために・・・アヤを生き返らせる為なら・・・他人なんて・・人の命さえも・・どうでも良かった。
ただ自分の運命を変えたかった。願いを叶えたかった。・・・その為なら何だって出来たんだ。
・・・出来たんだ。
(だからオマエはオレに勝てなかったんだよ。飲み込まれたんだよ)
背中に気配を感じる。たくさんの亡者のほかに自分の分身が現れたことに気づいた。
黒い自分自身・・・黒いミツル・・・
「ああ・・」
美鶴は目を閉じながら答えた。「ああ、そうだな」
(自分の願いを叶えるためなら、ここまでの事を平気でやれたおまえがそう簡単に変われるわけないだろ?)
ミツルは足元の亡者たちを足で蹴って追い払うとゆっくり美鶴の背中に覆い被さってきた。
そして耳元で囁くように吐息をかけるように呟いた。
(亘が傍にいれば・・・亘がいてくれれば変われると思ったよな・・変わっていけると思ったよな・・)
そうだ。
美鶴は幻界での自分の過ちを全て思い出した時。・・・このまま生きていける訳はないと思った。
生きていっていい筈がないと思ったのだ。たとえ誰も知らなくとも。現世にはなんの関わりのない事だったとしても。
・・・自分は人殺しだ・・・たくさんの人をこの手で殺めてしまった・・・人殺しなのだから。
けれど。
亘は傍にいると言った・・・離れないと言った・・
・・・美鶴を決して一人にはしないと・・・言ってくれたのだ。
・・・好きだと・・・言ってくれたのだ。
(亘がいないと生きてなんかいける訳ないだろ・・)
美鶴の肩がかすかに震える。ミツルは美鶴の首に絡めている手に力を込める。
(だったら・・・だったら・・手に入れろよ。どうしてためらうんだ?自分が生きていくためなのに。その為に亘が必要なのに。・・・どうしてだよ?)
「・・・そんなのは、違う」
ミツルが目を瞬かせる。搾り出すように声を出して話し始めた美鶴をじっと見た。
「・・・そんなのは、そんなのは違う・・・自分が必要だからって相手を無理に手に入れて良い訳ないんだ・・」
美鶴は静かに目を開く。頭の片隅に亘が・・・亘の笑顔が浮かんで知らずそっと微笑んだ。
「相手が自分を望んでないのに・・・必要としてないのに・・・手に入れたって意味はないんだ。・・・抱いたって意味はないんだ」
──美鶴
亘が両の手を広げる。眩しいくらいの笑顔で美鶴のもとに駆けて来る。
嬉しそうに幸せそうに自分の名を呼ぶ。大きな声で。
──美鶴・・美鶴、美鶴・・・大好きだ・・
亘はいつもそう言ってくれた。てらいも無く打算も無く、ただ心の想うまま素直に。
俺は亘が欲しい。そうだよ。死ぬほど死ぬほど亘が欲しい。だけどそれは手に入れたいという事じゃない。
亘との永遠の約束が欲しい。例え傍にいなくても亘と俺は共にいるのだという事を・・・
結びついてるんだという・・・証が欲しい。
それが何なのかはわからない。
でも・・・確かなのは・・確かなことは・・・それは亘を抱くとかそういう事じゃない。
・・・そうじゃないんだ・・・
ミツルがゆらりと美鶴から離れていく。そして地の底のような冷たい響きで囁いた。
(おまえは馬鹿だよ)
消えかかりながら、闇に溶けかかりながらミツルは続ける。
(さっきも言ったろ?そんなに簡単に変われるわけ無いだろ・・おまえ、わかってるのか?もし、もし、亘が・・・亘が本当に自分から・・俺からいなくなってしまうくらいなら・・・)
どうしてしまうのか。
自分は亘をどうしてしまうのか。
手に入れられないくらいなら。誰か他のものの手に渡るくらいなら。
(壊しちゃえ)
振り返るとそこには幼いミツルが不気味な微笑を浮かべて立っていた。
美鶴を睨むように挑むように言葉を放つ。
(手に入れられないなら・・・メチャクチャにして・・・)
そしてふいに悲しそうに・・・これ以上ないくらい悲しい顔をして、その瞳に涙を浮かべて。
(壊しちゃえ!壊しちゃえ!壊しちゃえ・・・ボクを置いていっちゃうなら・・・一人にするなら・・・)
・・・一人にしないで。
わたるわたるわたる・・・一人にしないで。・・・離れないで。
泣きじゃくる幼い美鶴。取り残された美鶴。たったひとりの美鶴・・・
わたるわたるわたる・・・傍にいて。
・・・傍にいて。
さぁっと光が差すのを感じて美鶴はゆっくり目を開けてここが自分の部屋だと気づく。
すぐ横に誰かがいるのを感じた。手がそっと伸びてきて美鶴の額にその手を当てる。
「良かった。熱は下がったわね」
ゾフィの声だった。美鶴はまだ声のほうを向けずにぼんやりしていた。
優しい声が柔らかい声が耳元に、しばらく聞かなかったその名を響かせた。
なによりも愛しい響きを持つその名前。なによりも聞きたかったその優しい響き。その名前。
「・・Wataru・・・ワタル・・・ワタル。・・美鶴の大事な人は美鶴と同じ、とても綺麗な名前なのね」
見上げると女神のように王女のように気高い微笑を浮かべるゾフィがいた。
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