美鶴が亘に何も言わずアメリカに行ってしまってから一週間がたった。
その間一度たりとも美鶴から亘に連絡はなかった。
連絡先を聞いて連絡しようにもアヤも美鶴の叔母でさえも、アメリカに行ってから美鶴が何処にいるのかわからないという状況に陥っていたのだ。
美鶴からは無事着いたからという連絡があったきり、当初は叔母の知り合いのつてで滞在させて貰う筈だった知人のスティ先にも美鶴は行っていない事がわかったのだ。
ただ、アヤの携帯に必ず一日一度、元気にやっているから心配するな、と短い連絡が来た。
何処にいるのか聞こうにもすぐ切ってしまうためどうにもならなかった。
叔母は帰って来たら只じゃおかないんだからと烈火のごとく怒り、アヤは悲しそうな瞳をして一日一度の美鶴からの連絡を待っていた。
そして亘は・・・
「三谷」
呼びかけられて亘はハッとする。
「あ、ご、ごめん!なに?」
宮原は軽くため息をつくと目の前のコーヒーカップを手にとった。
「・・・まだ、芦川から連絡はないのかい?」
亘も自分の前のカップを手にとってゆっくり中身をすすりながらかすかな声で言った。「・・・うん」
美鶴が行ってしまってから一週間後の休日に亘は宮原と喫茶店にいた。あの日、声も立てずにただ震えながら泣いていた亘を泣き止むまで宮原はずっと支えてくれた。悲しそうな顔で。
「そっか・・・」
宮原はカチャンとカップを置く。そして再びため息をついた。迂闊だった。もっと早く気づけばよかった。
まさか、芦川があんなに早くアクションを起こすとは思わなかった。
まさか出発の日にちを違えて伝えてまで三谷の前から去ろうとするなんて・・・思わなかった。
そこまで追い詰められてるとは思わなかったんだ・・・
「宮原のせいじゃないよ」
亘の言葉で今度は宮原がハッとする。「美鶴が自分で考えて決めて・・行動したことだから・・・僕とのことも含めて・・」
宮原はつらそうに亘を見た。そしてちょっと腹立たしくなってきた。
芦川の気持ちはわからなくはない。多分自分を冷静に見詰めなおす時間が欲しかったんだろう。
・・・三谷と距離をおきたかったんだろう。
でも何も伝えられずに、何も話して貰えずに置いていかれた三谷の気持ちはどうなるんだ?
不安なまま待たなきゃならない三谷は・・・・どうなるんだよ?・・・勝手じゃないか。
「芦川からもし俺に連絡がきたら、もう三谷は俺が貰ったからって言ってやるさ!」
珍しくつっけんどんな口調で腕を組みながら宮原は続けた。亘はポカンと口をあけて宮原を見た。
「それがいやなら、帰って来い!芦川いない間に俺が三谷をどうにかしても知らないぞッて脅してやる!・・・それ聞いたら、芦川すっ飛んで帰ってくるよ」
そしてふてぶてしい顔で亘を見た。亘は思わず吹き出して声を立てて笑った。
「・・・やっぱ、おかしい?」
「う、うん・・合わない・・宮原、そういうのすっごく似合わないよ」
宮原は息をつくと自分も笑い出した。そしてふいに真面目な顔になって話し始める。
「アメリカの大学・・・得に医大系ってさ。日本の大学入ってから編入って難しいらしいんだ」
亘は笑うのをやめて宮原を見た。
「・・・そうなるとむしろ、今から高校やめて向こうの大学に入学する準備をしたほうが多分経済的な面を考えても、ずっといい筈なんだ。芦川は今回、もうそこまで考えて向こうにいってると思うんだ。・・・多分、ただ見学に行ったんじゃないと思う。そうなると下手すればこのまま向こうにいきっぱなしってことも有り得るよ・・」
亘は顔を伏せた。・・だとしてもどうしようもない。・・・どうする事も出来ない。連絡も取れない今の状況では。
「・・・信じるよ」
ポツリと呟かれた亘の言葉に宮原は目を細める。小さな声で、でも力強い声で亘は言った。
「この先がどうなるのか・・・てんで・・わかんないけど、でも」
そして顔を上げて微笑んだ。唇をかみ締めて微笑んだ。
「美鶴を信じる・・・今度こそ、最後まで。何があっても。・・・美鶴を信じる」
このまま二人の関係が消えてしまう訳がない事を。
一度つないだ手が離れるわけがない事を・・・信じることに決めたから。
亘の言葉を聞いて宮原は少し安心したように微笑んだ。
「What your name?(名前なんていうの?)」
人気のない公園のベンチに腰掛けていた美鶴は声のした方を振り返る。
一人の少女が美鶴をまっすぐ見ていた。年の頃はアヤと同じくらいか?
長い髪を二つに束ねて、くりくりした真ん丸い瞳をしていた。
雰囲気も何処となくアヤに似ている気がする。そういえばなんだか叔母にも似ているようだ。
「 me?(俺?)」
美鶴は答えた。少女は頷いた。
「Mitsuru・・・I am Mitsuru.(・・・ミツル。・・・ミツルだよ)」
「Mitsuru・・・beautiful name!(ミツル!綺麗な名前ね!)」
そう言って少女は美鶴が腰掛けていたベンチに自分も腰掛けた。
「Your name?(君は?)」
「Me? Zoffy. My name is Zoffy.(わたし?わたしはゾフィよ)」
美鶴は目を見開いた。少女の顔を思わずじっと見つめる。この少女、この少女は・・・
「My name strange?(私の名まえ変?)」
「No,No・・not strange・・(いや、変じゃないよ・・)」
少女から顔を背けながら美鶴は言った。
アメリカにきてすぐ美鶴は自分で下宿先を探してそこにいた。
叔母の知り合いにはすぐ帰ることにしたのでそこで十分ですといって連絡先を伝えなかった。
そして宮原が亘に言った通り、もう行く大学の目処はほとんどつけていたため、今回はもうその手続きをしに来たのだ。
受験は日本と違って秋の終わり頃にもある。それに受かってさえしまえばもう、そのままこっちにいることが出来る。
もちろん、アヤの事や金銭的な事もあるため一度日本には帰らなければいけないだろう。
だが、それらは全てすぐに済ませることの出来る事ばかりだ。
・・・亘に会わなくてもすむくらいに。
美鶴は自分の目の前にいる少女をゆっくりと振り返った。
・・・幻界で自分が傷つけた少女。全てを破壊して絶望を味あわせてしまった少女。
・・・皇女ゾフィと同じ顔。同じ名前のその少女を。
「よくここにいるでしょう?」
少女は美鶴を見ながら足をぶらぶらさせて言った。美鶴は黙っている。
「わたし、いつも見ていたの。いつも気になっていたの。・・・どうして何時もこんなに悲しい顔をしてるのかしらって」
美鶴はまだ何も言わない。視線を少女からはずすとただ前を見ていた。
「見たこともないような切ない瞳・・・悲しい瞳をしてるのはなぜかしらって。誰を想ってそんな瞳をしてるのかしらって」
美鶴は顔を上げた。少女の言葉を繰り返す。
「・・・誰を想って?」
「ええ、そうよ」
少女、ゾフィは美鶴をまっすぐ見つめると柔らかく微笑んだ。
「そんな瞳をして想う相手はとても大切な誰かに決まってるはずよ。・・・でも、今その人はあなたの傍にいないのね」
そしてふとベンチから立ち上がる。そしてくるりとダンスをするように美鶴の前を一回りして優雅に微笑みながら歌うように言った。
「ね?あなたにそんな瞳をさせる人はいったい誰?恋人?家族?それとも大事なお友達?」
美鶴はゆっくり立ち上がると何も答えずに少女の横をすり抜けた。
少女は小首を傾げ、去ってゆく美鶴の後姿に声をかける。
「明日も来る?」
かすかに頷いたような、肯定も否定もしないまま美鶴は少女を振り返らず去っていった。
美鶴は下宿先に帰るとすぐにベットに横たわった。下宿は老婆がひとりで管理している小さな宿で、わけ有りの住人が多いのだろう。
いきなりやって来た若い東洋人を難なく受け入れた。
服も着替えずに横たわっている美鶴の傍に誰かの影が浮かび上がる。
その影は美鶴に忍び寄ると耳元でそっと囁いた。
(美鶴・・・)
影は横たわっている美鶴の上にそっと覆い被さるとまた耳元で囁いた。
(美鶴・・・)
「止めろ・・・」
影のほうを見ずに苦しそうな声で美鶴は言った。
(なんで?・・・僕だよ。・・・ワタルだよ)
そう言って影は美鶴の唇に手を伸ばして来た。耐え切れずに美鶴がその手を払う。
黒い影が・・・黒いワタルが悲しそうにその手を引く。
(どうして・・・?)
「消えろ・・・おまえは亘じゃない。・・・亘は、こんなこと・・しない」
(ほんとうに?)
一転悲しそうな表情から妖艶で狡猾な瞳に黒いワタルは表情を変える。そして笑いながら続けた。
(僕だって亘だよ。おんなじ一人の人間だよ。・・・そのボクが抱かれても良いよってずっと言ってるんだよ。
だから多かれ少なかれ亘だってそう思ってるってことさ。違う?)
アメリカに来てから美鶴のもとには毎晩黒いワタルが現れていた。そして囁いていた。
いいよ。・・・抱いてもいいよ。
・・・美鶴の好きにして・・・いいよ・・・と。
「違う!亘は思ってない!亘はそんなこと絶対に望んでない!」
叫ぶように美鶴は言った。息が上がって眩暈と吐き気がした。
・・・亘は、亘は・・・泣いていた。自分がアメリカに行くと告げたとき。
自分でも知らず亘の存在をどうしても確かめずにはいられなくなって無理にその存在を・・・そのぬくもりをこの腕に抱いて吐息を奪ったとき。
・・・これ以上ないくらい悲しい瞳をして・・・泣いていたのだ。
「・・・もう、あんな顔は見たくない」
亘の泣く顔なんて見たくない。悲しい瞳なんて見たくはない。
亘には何時だって笑っていて欲しい。・・・幸福な顔をしていて欲しい・・・そう思っていた。
それが何よりもの自分の願いだったはずなのに。
吐き気を押さえながら美鶴は叫ぶ。「みたくない・・・みたくないんだ・・・」
黒いワタルはかすかに悲しそうな微笑を浮かべるとそっと消えていった。
誰が考えただろう。大事な守りたい笑顔を破壊することがあるかもしれないなどと。
それが誰よりも守りたいと思っていた筈の自分自身かもしれないなどと。
この矛盾。この葛藤。
亘・・・わたるわたるわたる・・・亘!
・・・どうして?どうして俺の前に現れる・・・?あんな黒い影を見せられるほど、見せられなければならないほど。
・・・俺は思ってるのか・・・?
・・・おまえを手に入れたいと・・・願っているのか・・?
(あなたにそんな瞳をさせる人は誰?恋人?家族?・・・それとも大事なお友達?)
・・・ベットに横たわり薄れていく意識の中、美鶴はゾフィの言葉を思い出していた。
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