のちの想いにその噂は2、3日前から男子を中心にまことしやかに囁かれていた。
放課後、どこからともなく現れた美少女が中学校の校門の前にずっと立っていて、誰かを探しているらしいというものだ。
「お前、見たか?」
「見た見た!髪の長いすっげー、超つく美少女!目がキラキラしててなんてーか、お嬢様って感じでよ。超いい感じ!でもここら辺じゃ見た事無い制服着てんだよな。どこの子なんだろ?」
「何かいつも誰かを待ってるらしーぜ!」
「あんなイケテル子に待ち伏せされる奴なんて誰だろーな。くそっ!」
もうすぐ図書館の図書が一斉に入れ替えになるため、連日居残りで図書委員の仕事をしていた美鶴はそんなため息混じりの男子生徒の呟きをあちこちで聞いた。
けれどもともと噂話というものに全くの興味が無い美鶴は、その件が耳に入っても完全スルーしていて頭の片隅に残す事も無かった。
それにいまの美鶴にはそんな事よりずっと気にかかる事があった。
亘が流行の風邪にかかってしまい、もう5日も学校を休んでいるのだ。
図書委員の仕事が重なった上、亘がうつったら大変だから見舞いに来なくていいからね!などと、釘をさす為顔を見に行く事も出来ず、亘に会えない美鶴はかなりのイライラ感を呈していた。
朝から少しどんよりと曇りがちなその日。
美鶴はようやく図書委員の仕事も一段落つき、亘が山は越えたみたいだから、今日ならちょっと寄ってもいいよ。と、ケータイにメールを寄越して来ていて、やっと亘に会えると息をついていた。
そうなるともう授業どころではない美鶴は、学校が終わると一刻も早く、亘のいるマンションへ向かおうと足早に放課後玄関から外に出た。
わき目もふらずに真っ直ぐ、前をみて歩いていたら校門を出てすぐのところで誰かに声をかけられた。
「芦川美鶴くん?」
壮麗な鈴の音のようなその声に美鶴は思わず声のした方を振り返る。
いつもなら、誰か女子生徒が自分の名を呼んだり、呟いたりしているのに気づいたところで美鶴は振り返る事もしない。
けれどその穏やかだけれど、凛とした強さを秘めたその澄んだ声色がもう一度自分の名を呼んだ時、美鶴は何時の間にか足を止めて、その声の主の前に立っていた。
「芦川美鶴くん・・・?」
美鶴は自分の目前の、長い黒髪を優美に風に靡かせながら背筋を真っ直ぐ伸ばし、まるで漆黒の闇夜に只一つの旅人の目印である星ぼしの輝きのような瞳で自分を真っ直ぐ見つめてくる少女を、思わずジッと見つめ返しながら無言で頷いた。
少女はそれを見ると肩をすくめてホッと息をつき、途端に少女らしい柔和な表情になる。
そしてニッコリ微笑んで、美鶴の方に一歩歩みより告げた。
「初めまして。私、大松香織といいます」
一人でさえ目立つ美鶴が超のつく美少女を連れて歩いていたとなれば、翌日学校でどんなあらぬ噂が立つかわからない。
幸い言葉を交わした時、周りに他の生徒は誰もいなかった為、美鶴は少し遠くのなじみの喫茶店へ香織を連れて行った。
その喫茶店は美鶴自身は何度も来た訳ではなかったが叔母のお気に入りで、入れたてのコーヒーと手作りのケーキが絶品なのだと、時々美鶴とアヤを連れて行ってくれたことがあるのだ。
老夫婦が二人で営んでいる小さな喫茶店なので、正直人も多くない。
静かに話をするなら、うってつけの場所だった。
美鶴はコーヒーをブラックで頼み、香織はカフェオレとチーズケーキを頼んだ。
「こういう店、亘くんと良く来るの?」
運ばれて来たカフェオレを嬉しそうに口に運びながら、香織が聞いて来た。
美鶴もブラックコーヒーを口にしながら、ゆっくり頭を振って答えた。
「いや、三谷とは・・・。中学でこういうところに保護者なしで来るの禁止されてるし。・・・ここは俺の叔母さんのお気に入りの店なんだ」
「ああ、そうよね。じゃあ、亘くんとは普段どんな事して遊ぶの?」
「遊ぶって、・・・いうか。俺があまり外に出るのが好きじゃないから、三谷はそれに合わせてくれて俺が家で本読んでる横で、一人でゲームしたりしてる」
香織はカップを置くと口元に手をやり、クスリと笑った。
「そうなの?ほんとに亘くんが手紙で教えてくれた通りなのね」
美鶴は楽しそうに笑う少女にゆっくりと視線を向けた。少女の名を聞いた時、美鶴はすぐに大松ビルの関係者の娘だろうと気づいた。
自分は一度も、顔を見ることさえなかったけれど───亘からその少女の存在は聞いた事があったのだ。
現世で理不尽な事件にあい、その為心を閉ざしてしまった少女のことを。
亘や美鶴と同じくその幼い無垢なる魂を無残に傷つけられ、それゆえその魂が幻界に飛び、水晶の籠の中に閉じ込められていた少女のこと。
───そして亘が・・・・幻界で白い鳥となっていたその少女の魂を、幻界から解き放ったということを───聞いていた。
けれど、現世で再会を果たしてすぐその少女は、引っ越していってしまったと、亘は言っていた。
ほんの少し切なそうな寂しそうな瞳をして・・・・そう、言っていた。
「・・・三谷とは」
美鶴は自分が意識して亘を苗字で呼ぶことに、なぜ自分でもそうするのかわからなくて、正直自分自身に腹を立てながらも、どうしても香織の前では「亘」と言えずに話しをしていた。
「三谷とはしょっちゅう・・・連絡をとってるん、だ・・・?」
「ううん。そうでもない。月に一度、手紙をやり取りするかどうかかなぁ?私、亘くんが5年生の秋になるころくらいにいきなり引っ越す事になったのよね。それで住所を交換して。
まだその時はお互いケータイも持ってなかったから、手紙を書いて。でも、たまーになのが却って嬉しかったりしてね。それで気がついたらもう3年くらいやり取りしてるの。
今回たまたま親戚に用事が出来て、私、今週いっぱいこっちに来れる事になってそれで・・・」
香織は顔の前で手を合わせながら、コロコロといった感じで笑いながらしゃべった。
美鶴はその香織の笑顔を見ながら純粋に可愛いな、と思う。
これだけ愛らしい少女なら自分と同じ年頃の少年は、おそらく誰もがかなりの好感を持つだろう。女子に対して滅多に感想なんか持たない美鶴でさえそう感じた。
香織は実際それくらい魅力的な少女だったのだ。
・・・・・そう、───多分、亘だって・・・そう思うだろう。
美鶴は自分の胸がツキン、と小さく痛むのを感じる。その痛みの正体が何なのかすでにわかっている美鶴は顔を少しだけ俯けて、小さく舌打ちした。
「手紙によく芦川くんが出てくるの」
香織はチーズケーキをフォークでつつきながら、楽しそうに話しを続ける。美鶴はゆるりと顔を上げた。
「芦川くんがテストで一番取っただとか、合唱コンクールで指揮をしただとか、休みの日はこんな本読んでただとか、コーヒーはブラックで飲むとか・・・・まるで、自分のことみたいに」
香織がかすかに瞼を伏せて、尚もチーズーケーキをつつく姿に美鶴は、少しだけ目を瞬く。
香織はフォークをそっと皿の上に置くと、おもむろにテーブルに肘をついて片手を頬に当てながら、小首を傾けて独り言のようにポツリと呟いた。
「芦川くんの髪の色や、雰囲気やそんなことまであんまり詳しく書いてくるから・・・私、さっき一目で芦川くんがわかっちゃったわ。呼んですぐ振り向いたのを見て、やっぱりって思っちゃった」
「・・・ずっと俺を探してたのか?」
「ええ」
「・・・・どうして?会ったことも無い俺に?・・・・・三谷に会いに来たんじゃないのか?」
香織は頬に当てていた手を離して、再び漆黒の瞳を美鶴に向けると、ゆっくりと頭を振った。
「芦川くんに会いたくて来たの。私と同じ───あなたに会いたかったの」
美鶴は眉をひそめて香織の次の言葉に大きく目を瞠った。
「亘くんに救われた───私と同じ・・・・芦川くんに会いたかったの」
喫茶店を出て二人はあても無く、今にも泣きそうになってきた灰色の空の下を、しばらく無言で歩いていた。
香織は手を後ろに組みながら、美鶴の一歩前を歩いている。
スラリとした白い足が軽やかに、ステップを踏むように歩いている。
「わたし、ね。・・・・・こんな風に自分の足でまたこうやって外を歩けるようになるなんて思ってなかった」
香織は大きく息を吸い込むと、空を見上げながら歌うように続けた。
「歩くどころか、しゃべることも、食べる事も、こうやって空を見上げる事も、もう無理だと思ってた。私の心はもうそんな事も出来ないって言ってたから──あの水晶の籠から飛び立つまで」
香織は空を見上げたまま、銀色の雲を見つめながら独り言のように呟いた。
美鶴が立ち止まり、香織の背中に向けてポツリと問いかけた。
「キミは───ヴィジョンでの事を・・・・忘れてなかったんだな・・」
「ええ。忘れてないわ。覚えてた。亘くんが私を助けてくれた事。その手に私の魂を包み込んで私を還してくれたこと。──ずっと忘れてなかった。・・・・ずっと覚えてた」
香織も立ち止まるとゆっくりと美鶴の方を振り返る。
その崇高なほどの煌きを持つ黒い瞳で、真っ直ぐ美鶴を見た。
「現世で再会した時、亘くんが言ってくれたの」
香織の長い髪が雨の匂いを混ぜ始めた風にふわりとなびき、一瞬香織の表情を隠す。
「キミはボクの運命の女神だったよって───。キミが抱きしめてくれた事をボクはずっと忘れない───って・・・・・ありがとう───って」
風が舞う。その湿り気を帯びてきた風はゆるやかに美鶴にまとわりついて、なびいた前髪が今度は美鶴の表情を隠す。
「それが私の姿をした女神に向けてのものだったとしても・・・・亘くんは言ってくれたから。キミは確かにボクの女神だったからって──ボクに力をくれたからって・・・私、その言葉で多分──これからも生きていけるの。亘くんのその言葉でこれからも強くなれるの。真っ直ぐ歩いていけるの」
香織は美鶴に歩み寄る。お互いの距離があと半歩で埋まるという位置で立ち止まると、香織はそっと美鶴の頬に手を伸ばして触れてきた。
そして祈るような誓うような瞳で告げた。
「───私も・・・・・同じ」
香織の言葉の最後がかすかにかすれて問い掛けるような声音だったのを、美鶴はどこか遠くでそれを聞いてるように感じながら・・・・目を閉じる。自分の頬に触れてくる香織の指先のぬくもりを感じながら・・・・目を閉じていた。
「───あなたと・・・・・同じ」
銀白色の雲から涙のような雨粒が、ポツン・・・・・と、零れ落ちてきて美鶴の頬を濡らした。
「・・・・やっぱり、三谷には会っていかないのか?」
「ええ。会う必要が無いわ。今もこれから先も」
「会いたくないのか・・・?」
「会いたいわ。とっても。でも会わなくていいの」
香織と美鶴は駅に来ていて、その改札の傍で話しをしていた。香織の親戚のうちは隣町で、香織は駅から電車に乗ってそこに帰るのだと言う。
もう、あと何分かで目的の電車が来るという最後の最後に美鶴は香織に尋ねていた。
「どうして?」
「さあ・・・うまく言えないけど。・・・そうね。でも、多分、・・・きっとそれは・・・美鶴くん、わかってるんでしょう?」
からかうように笑いながら、香織は手に持っていたキップをちょんと、美鶴の唇に当てて聞いてきた。
美鶴は何も言わない。亘と同じく香織の自分に対する呼び方が、苗字から名前になっている事に少しだけ笑みを漏らした。
「ただね・・・」
香織は笑うのをやめちょっとだけ目を伏せると、少し、ほんの少しだけ寂しそうな声でそっと美鶴に呟いて来た。
「・・・これはね。女の子のセンチメンタルな夢だと思ってくれていいの。
決してそうなりたかったとか、そうじゃなくて・・・・ひとつの夢として、ついつい考えちゃう。それだって有り得たのかも知れないなって、そんな夢。そんな程度のものだと思ってね。
・・・・ね?美鶴くん・・・もし、もし私たちが」
香織は顔を上げる。
その表情は今はじめて、少女らしい切なそうな哀しそうな瞳でまるですがるように美鶴を見ている。
香織は口の端を少しだけ噛んで、見に行った映画の物語が予期せぬアンハッピーエンドだった事がほんの少しだけ残念、といったような口調で囁いた。
「私たちがヴィジョンてものを知る必要がなかったのなら・・・。行く必要がなかったのなら。
もしただ、本当にただ普通に過ごせてる私たちだったなら・・・・。普通の男の子と女の子として出会ったりしたのかな。
・・・・私たち3人、もしかして友達になってたり・・・・恋人同士になってたり、したのかな?」
駅の中のアナウンスと近づいてくる電車の音に、香織の声は後半はほとんど聞き取れなかったけれど、最後に泣き笑いのような笑顔で呟いた香織の一言は、美鶴の耳にいつのまにか降り始めた雨音と共に響いて、美鶴はしばらくそれを忘れなかった。
「3人で笑いあったり、一緒に普通の時間を過ごしたりしたのかな──・・・・」
香織がまたステップを踏むように軽やかに、髪をなびかせながら改札の向こうに消えていってからも、───美鶴は香織の消えていった先を見つめながらしばらくそこに佇んでいた。
外では銀色の糸のような細い雨が音もなく、静かに降りそそいでいた。
「久しぶり、みつ・・・って?!わっ?どうしたのさ、びしょ濡れじゃんか?!」
美鶴が亘のマンションに着いて玄関に入った途端、カーディガンを羽織ったパジャマ姿の亘が、ずぶ濡れの美鶴の姿を見て驚きの声を上げた。
亘は慌てて洗面所に飛んでいくと、大きめのバスタオルを持ってきて美鶴の頭をごしごし拭く。
「何やってんのさ?今度は美鶴が風邪引いたらどうすんだよ!・・・・せっかくうつさないようにって、会うの我慢してたのにこれじゃ意味無いじゃん!」
亘は怒ったような声で尚も美鶴の頭をごしごしやる。まだ靴も脱いでいない美鶴にそのバスタオルを肩から掛けると、手をとり引っ張りながら言った。
「あーもう、ダメだ!ぬれた服も着替えなきゃ。ホラ、美鶴、早く!ボクの服貸すから着替えて。早くしなきゃ本とに風邪引くよ?」
ぐいぐいとその手を引っ張りながら、亘は美鶴を家の中に引き入れ自分の部屋まで連れて行く。部屋についてすぐ、不意に美鶴が自分の腕を解くと今度は亘の手を掴んできた。
「え・・?わっ?!」
いきなり腕を解かれたかと思ったら、自分の腕を引っ張られて亘はバランスを崩す。そのまま美鶴は両手を広げるとよろけた亘を受け止め、ベットに倒れこんだ。
「え、ちょ・・ちょっと、美、美鶴?!」
そのままベッドの上で息が苦しくなるくらい抱きしめられて、亘は困惑で真っ赤になりながらも美鶴の背中をドンドン叩いて抗議の声を上げた。
「み、美鶴・・・バカッ・・くるし・・・それに、き、着替えなきゃ風邪引くってば!ボ、ボクの心臓の音なら後でちゃんと聞かせてあげるから・・・!まず、着替えてってば!」
ポタ・・・ン。
「みつ・・・・」
美鶴の髪から流れ落ちた雨の雫が亘の目元に零れ落ちる。
美鶴が少しだけ亘から体を離して、ジッと亘を見下ろしていた。
「・・・・・どうしたの?」
亘は美鶴の背中を叩いていた手を止めると、かわりにそっとやさしく今度はその背を撫でた。
小さな子供にするように、やわらかくトントンとその背をさすった。
美鶴が苦しそうに搾り出すような声で、亘からほんの少し顔を背けて言った。
「俺は・・・・亘から離れられない」
「え?」
「離れる事なんか出来ない、出来ない・・・したくない。・・・傍にいたい。ずっと・・・ずっとずっとずっと」
「・・・わかって、るよ?・・・ボク、離れないよ?傍に・・・いるよ?どうしたのさ?」
美鶴はフルフルと頭を振る。雫がパタパタと舞い落ちて白いシーツに染みを落とした。
涙みたいに。
「美鶴・・・?」
亘は美鶴の背に回していた手をそっと頭に伸ばすと、自分の胸にその頭を優しく柔らかく包み込んだ。
そして子守唄を歌う母親のように耳元に小さく囁いた。
「大丈夫・・・」
トクントクントクン・・・・。
亘の胸から響いてくる甘い音色を、美鶴の耳に寄せて聞かせながら亘は囁いた。
「大丈夫。美鶴・・・大丈夫だから」
───香織は亘と出会い、亘に救われたことによって一人でまっすぐ歩く道を選んだ。
───亘のくれた言葉で自分が先に進めることを知ったのだ。例え───亘が自分の傍にいなくても。
鳥篭から解き放たれた鳥は、その翼をどこまでも羽ばたかせることが出来るのだから。
けれど。
けれど。俺は。俺は・・・。
「傍にいたい・・・・」
「うん・・・」
傍にいたい。傍にいさせて。・・・・まだ、まだ今は。どうか。どうかどうか。
「大丈夫だよ・・・」
美鶴は耳に響く亘の心音と、優しい亘の囁きにいつのまにか子供のように目を閉じる。未だ濡れたままの美鶴の髪を亘はそっと掻き揚げると、また雫が一粒ポタリとシーツに染みを作った。
亘は美鶴が穏やかな寝息をたて始めても、まだその頭をやんわりと包み込みながらその胸に抱きしめていた。
ずっとずっと。───美鶴が幸福な夢を見れるようにと。そう願いながら。
亘・・・傍にいたい。傍にいさせて。・・・・まだ、まだ今は。どうか。どうかどうか。
小さな子供のように願うように祈るように・・・・美鶴は眠りに落ちる。
──ね、美鶴くん?
・・・・・・私たちがもし、ヴィジョンに行かなかったら。
ただの普通の男の子と女の子として、出会ってたとしたら。
私と亘くんと美鶴くん、3人で遊んだり、笑いあえたり。
───したの、・・・かな?
香織の甘い柔らかな声が、遠くでそっと鈴のように響くのが聞こえた気がした。
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