キスガミキ最初に言い出したのはカッちゃんだった。
その時は面白そうだし、楽しそうだし、付き合うくらいならまぁ、いいか、という軽い気持ちでしか亘は考えてなかった。
そう───深くなんて考えてなかった。亘は考えなかった。考えるような事だなんて思わなかった。
だからそれがこんな結果を招くなんて───本当に予測もしなかったから。
「ぜうよしびそあばとこ !」
「・・・・・・・・・・・」
それは、そろそろクラス中の女子がサワサワとざわめきたつバレンタイン当日まであと少し、という、2月のとある日の事だった。
例によってカッチャンがものすごくいい事、思いついた!と、言った態で人差し指を立てながら亘に向かって、弾丸のように訳のわからない言葉をまくし立てたことから始まる。
「・・・・新しいゲームの呪文?カッちゃん?」
亘が目をぱちくりさせながらそう聞くと、カッちゃんはしてやったり!と、ニヤリと笑いながらまた呪文のような何事かを呟いた。
「ろだいなんかわ?るたわ!」
「逆さ言葉だ」
?マークを頭の上に5つは浮かばせていた亘は、自分の後ろから聞こえてきた声に振り返る。
そこには先生から頼まれ、次の授業で使うプリントの束を持ってクラスに戻ってきた美鶴が眉をしかめながら立っていた。
その表情には明らかに、小村の奴また下らない事を始めやがって、と、いう憤りが浮かんでいる。
「逆さ言葉?」
「わかしあ。よなうい!」
「ガキじゃあるまいし、つまらないことは止めろ。大体カンペ持たなきゃ出来ないくらいならやるな!情けない」
美鶴はそういってプリントの束を亘の机に置くと、カッちゃんが後ろ手に隠していたメモ用紙を素早く取り上げた。
「あ、らこ!」
取り上げたメモ用紙には、亘の名前から美鶴の名前果てはクラスメイト全員の名前、そして日常よく使う単語や言葉がこれでもかと逆さにして書き散らかされていた。
「ちぇー!」
カッちゃんは美鶴に取り上げられたメモを奪い返すと、口を尖らせ頬を膨らませた。
「せっかくこれでまた新しいゲームを亘に仕掛けてやろーと、思ったのによ!」
「ゲームって・・・何さそれ?」
「普段使う言葉を全部逆さにすんだよ。『おはよう』は、『うよはお』とかさ」
「そんな舌を噛むようなゲームする事に何の意味があるって言うんだ」
美鶴が呆れたようにプリントを生徒達に配ろうと抱えなおしながら冷たく言い放った。亘は美鶴を手伝おうと立ち上がりながら、苦笑する。
「確かにねー。舌噛む上、そんなの咄嗟に逆さまになんて出来ないし。無理あるよ。カッちゃん」
「だからスリリングで面白いんじゃないかよ。早々出来ないことだから、勝ち負けがはっきり決まるだろ?」
「・・・カッちゃんて本とに勝負事が好きだね。まあ、確かに面白そうではあるけどさ」
美鶴の後について、プリントを各生徒の机の上に置いて行くのを手伝いながら亘はまた笑った。
カッちゃんもその後を追い掛け回すように付いて行くと、よっしゃ!という感じで指をパチンと鳴らしていきまいた。
「だろ?だろ?やってみたいだろ?な!亘。バレンタインまで俺とそれで勝負しようぜ。
そんで負けた方がチョコおごるってことでさ。どーだ?いいアイディアだろー?」
二人のやり取りを呆れ顔で半分無視しながらプリントを配っていた美鶴が、『バレンタイン』の単語を聞いた途端、ピクリと大きく肩を揺らした。
「ええー?男が男にチョコ貰ってどうするのさ?」
「いいだろー、別に。・・・てか、そうでもしなきゃ俺なんかその日にチョコなんか食えねーもんよ。
亘や芦川はいいさ。誰かかれかには貰えるんだからよ。・・・バレンタインてその日にしか買えない限定チョコとか色々あるじゃん!俺にそれを自分で買えっていうのか?お前はそんな冷たい奴だったのかー?」
「カッちゃん・・・論点がずれてってるよ・・・」
まぁ、要するに小村克美くんの目的はどうやらバレンタインチョコを食べたいけど、誰にも貰えないからって自分自身で買うのはいやだぁぁ!と、言うことらしいと理解した亘は、少しだけ呆れたため息をつきながら肯いた。
「・・・わかった。いいよ。でも!僕だってやるからには本気出すからね。チョコおごる泣きを見るのはそっちかもしれないよ?カッちゃん?」
「よっしゃ!負けねーぞ!」
「るやもれお 」
小学生男子らしい対抗意識で笑いながら軽くにらみ合っていた亘とカッちゃんの横で──どう考えてもこれは小学生本気ゲージを超えています。亘が他の奴にチョコなんか渡してたまるかそんなことは絶対断じて許すまじ眼光線──を放っている芦川美鶴12歳が、腕を組んで仁王立ちしていた。
───白峰の雪が春を迎えて小川に向かって流れていくがごとくの毎度毎度の当然の成り行き。
こうして始まった逆さ言葉ゲームは、学校にいる間(授業は除く)亘、美鶴、カッちゃんの3人の会話のみで行うという事になった。
そして先に5回失敗した者がまず負けになり、次に5回失敗した者も負け。最終的に残った一人が負けた二人から、バレンタイン用の好きなチョコを奢ってもらえると言う算段。
「で、何で俺まで駆り出される訳?」
不愉快不可解この上ない表情を浮かべながら、宮原が3人の前で思い切り苦々しげに疑問を呈した。その前で亘は思案気な顔をして、美鶴は只無言でいる。カッちゃんが宮原の肩をポンポンとたたきながら言った。
「だからさー!いわゆる判定役だよ。何せ、ものが逆さ言葉だから咄嗟に合ってるかどうか、判断するの難しーだろ?でもクラスでも芦川と争うくらいの秀才の宮原ならそんなの簡単だろ?だからさ、レフェリー頼む!」
「・・・あのね。俺にお前らのくだらない勝負事の為に、授業以外の時間全部くっついて歩いてその訳のわからん逆さ言葉とやらの判定しろって言う訳・・・?」
「・・・・そ、そうだよね。ごめん、宮原!」
「アヤはいま、手作りのチョコケーキを作るって張り切っている」
無言でいた美鶴の唐突な話に宮原とカッちゃんと亘は、目をぱちくりとさせながら美鶴を振り返った。
「誰にやるんだと聞いたら、頭文字Yくんとか言っていた」
「Y・・・?」
「アヤの目を盗んでそのケーキに本当なら毒を盛ったって俺はいいんだが、むしろそうしたいんだが・・・」
目を閉じ話をしていた美鶴がギン!と、目を見開くとものすごい低音で猛獣が威嚇するかのごとく囁いた。
「協力するんなら目を瞑る」
宮原くんは春の小川の流れに乗った。
「ぜうろえかにょしっい。るたわ 」
「だんるえかとれおはるたわ 」
「てまと・・・じゃなくて、てっま・・・て、あ!しまった!」
「ハイ三谷。これでペナルティ3回」
慌てて口を手で押さえる亘の横で宮原が指を3本突き出していった。
満を持して(?)始められた逆さ言葉ゲームは始めたその初日から、亘の不利が火を見るより明らかだった。
もともと話をするのがそんなに得意ではないのと、小細工の利かない性格をしているというのに、まともな言葉をわざわざまともではない逆さ言葉に変換するなど、亘にはどう考えたって向いていなかった。
頭の良し悪しというより、こういうのは半分以上はどちらかというと遊び心と要領の良さなのだ。
その点、遊び心というポイントではカッちゃんは異様なまでの能力を発揮するし、美鶴に至っては己の目的を達成するための要領の使い方のマインドコントロールの器用さは言わずもがなである。
「この分なら負けは僕に決定だね・・・」
レフェリー宮原に対しては普通の言葉使いでOKな為、亘は大きくため息をつくと、情けない声で言った。宮原が少し同情したような声で返事を返す。
「美味そうなチョコのひとつやふたつ買って奢ってやればすむ事だろ?まぁ、いいじゃないか」
「うん、まぁ・・カッちゃんの場合はそうだと思うけど・・・美鶴は・・・何考えてるんだろう?」
「え?」
「だって、美鶴甘いの嫌いじゃん。もともとチョコなんて食べないんだよ?だからなんでこのゲームにそもそも首突っ込んできたのか、僕不思議だったんだ。しかも頑として負けまいとしてるし」
「ああ、まあねぇ・・・」
宮原は苦笑する。
それはだから、例えゲームの勝敗の結果だろうがなんだろうが、三谷が誰かにチョコ渡すのなんか許せないという、芦川のいつもの対三谷亘くん専用独占欲の発露なんだよ、と言う言葉を宮原は静かに飲み込みそしてふと思った。
──そうだよな。よくよく考えてみれば芦川の場合、勝者になったってチョコなんか無用な訳だから、結果行き着くところは、まあ、あまりヨロシクナイ──主に三谷にとって──ことになるんだろうなぁ。やっぱり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
自分から望んだ訳ではないとは言え、そのヨロシクナイ事柄の片棒を自分も担ぐことになるはめになった宮原は、しばし良心の呵責に苦しんだ。
さて、そうこうしながらバレンタイン当日はきちんとやって来た。
亘の負けは早々決まったが、結局その当日まで決着がつかず、いまだすさまじい攻防を繰り広げていた美鶴とカッちゃんは、最終的に「ジュゲム」を全部逆さまにして言い合うという、傍から見たらマコトに馬鹿馬鹿しい勝負で勝敗をつけることとなった。
けれどさすがのカッちゃんも、まともに言ったってかなりややこしやの、そんなものをクリアすることはやはり困難で、敢え無く途中リタイアと相成った。
しかし亘が関わると、こと恐ろしいくらい常人を逸した能力を発揮する芦川美鶴は、ここに来て更に悪魔的な力を発散して信じられない事に一発でそれをクリアしてしまった。
判定した宮原は驚愕のあまり暫く空いた口がふさがらなかったほどである。
「なだちかのれお?」
腕を組み勝ち誇ったようにそういう美鶴に、宮原と亘とカッちゃんが一瞬、背筋を凍らせたのも無理からぬ事だったろう。
そしてなんだか世の無常を痛いほど感じてしまった宮原は、亘の代わりにカッちゃんにデカデカと「ゆうじょう!」と、書かれた徳用板チョコを買ってやり、更にこの後の亘の成り行きを憂いて、そっと聖バレンタイン司教に手を合わせ祈りを捧げていた。
「ねえ美鶴。本とにチョコいらないの?」
「いならい」
「・・・美鶴、ゲーム終わったんだからもう逆さ言葉は止めてよ」
亘と美鶴は学校が終わって亘の家に来ていた。
亘はてっきり学校が終わったらそのままどこかの店にチョコを買いに行くのかと思っていたのだが、美鶴は首を横に振ると、敗者の亘からもカッちゃんからもチョコはいらないから、亘の家に行こうと言ったのだ。
結局、勝負は美鶴の勝ちで一番負けたのは亘だったから、亘は美鶴が何を考えているのかわからなかったけれど、とりあえずおとなしく言う事を聞く事にした。
───けれどチョコがいらないんだったら、そもそも何であの勝負に加わったのだろう?
亘はまたもや?マークを頭の上に躍らせながら、自分の部屋のベッドの上で体育座りをして小首を傾げていた。
「まだゲームは続いてる」
「へ?」
いきなり言葉づかいをまともに戻してそう言う美鶴に、亘は少し驚いて顔を上げた。
「どういうこと?」
「チョコはいらない。でもその代わりに、まだ俺と亘でゲームを続けるんだ」
「ええー?・・・もういいよ。逆さで言葉考えるの大変だもん!」
「亘は普通にしゃべっていい」
「え?」
「その代り俺がしゃべった言葉を元に変換して」
「美鶴の言葉を?」
「そう。今からだ。『かいいてっい、にこよ?』」
「え、え?ちょ、ちょっと待って。え、えと・・・よ、よこにいっていいか・・・?」
「うそ」
「え?・・・うそ?・・・あ!『そう』か」
なんだかよくわからない内に美鶴のペースにすっかりはまってしまった亘は、美鶴がするりと自分の横に来て同じようにベッドの上に腰掛けたときに、さりげなく自分の肩に手を置いたことには注意を払わなかった。
「てっよ、にばそ 」
「う、うんと?・・・そばによって?」
「うそ」
「そう・・・?・・・もっと近寄れってこと?」
美鶴は微笑んでコクンと頷いた。亘は美鶴が美鶴の言葉を聞き取りやすいようにもっと自分の近くに寄れ、という意味で言ったのだと思い、スイ、と美鶴の口元が自分の耳元のすぐそばまで来るくらい体を近づけた。
「これでいい?」
「いい」
「あはは。『いい』はそのまんまだね」
思わず笑った亘の肩を美鶴はグイ、と引き寄せた。反動で亘は美鶴の胸の中に倒れこむ形になる。亘は目を真ん丸くさせて、すぐに体勢を戻そうとした。けれど美鶴がそれを許さず、残っていた方の手で亘が身動き出来ないようにやんわり頭を押さえ込んだ。
「み、美鶴?」
「亘、まだ終わってない。・・・ていきくよ 」
「え?え?・・・よ、よくきいて?」
「いならい、はコョチ・・・・りわかのそ」
「え、とえ、と・・・ちょこはいらない、そのかわり・・・?」
「うそ、りわかのそ。らかるたわ・・・」
亘はだんだん長くなってくる美鶴の言葉を変換するのに必死になった。何でこんな抱き合うような体勢をとらなきゃいけないのかまるで判らなかったけど、とりあえずそれどころではなかった。
「てしすき」
トクン・・・・。
一生懸命美鶴の言葉を聞き取っていた亘の耳に、その魔法のような言の葉が届いた次の瞬間、鼓膜に心臓の鼓動の音が大きく響いた。
亘はそれが自分のものだったのか押さえつけられた為、自分の耳にあたっている美鶴の胸から聞こえて来たものだったのか判断できなかった。
───すぐにうるさいくらい、自分の鼓動が早鐘のように打って来てしまい、訳がわからなくなったから。
「え・・・・」
「てしすき」
思わず顔を上げて美鶴を見ると、美鶴が亘の顔を覗き込むようにして眩しいくらい綺麗な笑みを浮かべていた。
亘はそれを見て一気に体内の温度を上昇させ更に鼓動を早めると、大慌てで美鶴の腕から逃れようとジタバタし始めた。
「なっ・・な、ななな何いってんの?美鶴!ふざけないでよ!」
「いなてけざふ」
「ふ、ふざけてないって・・・バ、バカバカ!そんな事出来る訳ないじゃん・・・!」
「てしうど?」
「ど、どうして?・・って」
暴れる亘を押さえるようにいつのまにか美鶴はその両手を掴んでいた。気づいた亘がそれを振りほどこうとするより早く、美鶴は亘が逃げられないように自分の体重をかけてポスン、と亘をベッドに押し倒した。
「わっ!」
「いらき、がれお ?・・・るたわ」
「え?え?・・・きらいって・・・そ、そうじゃ、ないけど・・・けど。だ、だって!」
亘はなんだか泣きたくなって来た。
こんな場面になってもまだ逆さ言葉を使う美鶴に、なんだか悔しいくらいの余裕を感じてすごく憎たらしくて仕方ないのに、けれど自分を見詰めてくる美鶴の瞳は余りに切ない色を浮かべていて、居たたまれなくて───もう何がなんだか訳がわからない。
「だきす、がるたわはれお ・・・」
本当に目に涙を浮かべ始めていた亘は、美鶴のその言葉を頭の中でやっと変換すると、涙を一粒ポロリと頬にこぼし、パチパチと何度も目を瞬いた。
「え・・・」
「だきす・・・がるたわ」
美鶴は目を細め、さらに切ない表情を浮かべると囁くようにそう言った。そしてゆっくり亘の耳元に顔を寄せ、さっきよりも更に甘い魔法の呪文を唱える。
「いしほ──が、るたわ 」
───い、し、ほ
その呪文を唱えられた途端、亘は自分の時間が止まってしまった気がした。
美鶴の言った今の言葉を何度も何度も頭の中で変換して、反芻して、確かめてみてもその意味が亘にはわからなかったから。
いや、わかってしまうのが・・・・・───こわかったから。
「るたわ・・・」
美鶴は亘の頬に伝った涙の跡を指でゆっくり辿っていく。そしてほんの少し苦しそうな辛そうな声で聞いて来た。
「かやい・・・?」
もう美鶴の発する言葉は亘にとって全て魔法の呪文になった。
呟かれるたび──囁かれるたび──体から力が抜けていって、頭がボウッとして亘は何も考えられなくなる。
美鶴に言われたことは、全て従わなければいけないような、そうしなければダメな様な、そんな気がしていつか手を押さえつけられていなくても、もう亘は暴れるのを止めていた。
「ん・・・・」
亘は目をギュッと閉じると、かすかに首を横に振る。また頬に涙の雫がポロリと零れた。
「・・・いい?」
美鶴はものすごく嬉しそうに、そう聞いて来た。
この言葉だけが、変換しなくてもまともなのが、なんだか亘を妙に気恥ずかしくさせた。だから亘は返事をする代わりに恐る恐る美鶴の方に手を伸ばして、自分から美鶴の首にぎゅうっとしがみついた。
美鶴は驚いて目を瞠りながらも、幸福そうに微笑んで亘を抱きしめ返しその肩口に顔を埋める。
亘はそれで更に全身を真っ赤にしながらも、やっとのことで返事をしようと口を開いた。
「で、でも・・・り、りむ!・・・ぼくから、は・・・りむ!」
とてもじゃないけどまともになんて言えなくて、亘はまともな言葉と逆さ言葉をちゃんぽんにしながら必死に言葉を紡ぐ。そして体を美鶴から少し離して、まるで断崖絶壁から飛び降りるみたいな思い切った声で言った。瞳を潤ませ、目に涙をたくさんためてくしゃくしゃな顔をして。
「・・・てし、らかるつみ 。お、・・・い、がねお」
言い終わった途端、亘は居たたまれなさ過ぎて恥ずかしすぎて、また美鶴の首に自分からぎゅうううっとしがみついた。それはもう抱きつくというより、力の入れ過ぎで美鶴を締め付けてるといっても過言ではなかったけど、美鶴はやさしくそれを受け止めながら亘の耳元にそっと囁いた。
「るたわ 。らか、るすくしさや、らかだてめじは・・・」
え?
亘がその美鶴のその台詞を頭で変換するより早く、美鶴の柔らかな唇がすでに亘の頬をかすっていた。
そして気がつけば自分の口で息をすることが出来なくなっていて、甘い熱い吐息が美鶴によって亘のなかに注がれる。
美鶴がしてほしいのはキスだけだと思っていた亘は───と、いうよりそれ以外の初めての事なんて当然わかる訳もない──美鶴の熱い指先が、自分のシャツの中のわき腹に触れてきた時、驚きのあまり飛び上がりそうになった。
美鶴は少しだけ苦笑すると、ゆるりと亘を押さえつけている手に力を込めてキスをしながら囁いた。
「───すきだ」
それまで逆さ言葉を使っていた美鶴がその一言だけをいきなりダイレクトに亘の耳に伝えてきて、亘はキスをされた時よりも激しく自分の鼓動が跳ねたのがわかる。今までの呪文の中でも一番強い魔法を使われたのがわかる。
───チョコなんかどこにもないのに。
まるでチョコを食べたみたいに全身が甘く痺れてもう完璧に自分の全てが美鶴に支配されてしまったのがわかった。
───その言葉の甘さに酔わされてしまったのがわかった。
「み、つる・・・」
美鶴の首に回されていた亘の両手はいつの間にベッドの白いシーツの上にパタン、と力なく落とされていた。
───そんなことになるなんて考えてなかった。深くなんて考えてなかった。
美鶴の逆さ言葉が亘にとってまるで甘い媚薬のチョコのように作用して、亘をその魔法の虜にするなんて。
───思いも・・・・・寄らなかったんだ。
時折、かすれるようなささやかなシーツの絹ずれの音に混じって、美鶴が囁き続ける逆さ言葉の呪文が亘の部屋の中に静かにそっと・・・・響いていた。
─────キス・・・ガミキ
白いシーツの上に亘がポタン、と落とした涙の染みがいくつか痕を作っていた。
後日。
宮原が余計なことは聞かないほうがいいだろうかと思いつつ、心配心と持ち前の好奇心で、三谷昨日は大丈夫だったかい?と尋ねてみれば、顔を真っ赤にしながら美鶴を決して見ようとせず「いならし!」と叫んで逃げるように走って行ってしまった三谷亘くんがいたとの事。
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