いつでもいちばん青い空(3月13日金曜日)俺がその写真を無くした事に気づいたのは、亘と一緒に中学の図書室に本を返しに行った時だった。
うかつにも本を読むときの栞代わりに、その写真を使っていたことを学校に着いてから思い出した。
うっかり借り出した本の中に挟んだまま、取り出すのを忘れていたのだ。
それを思い出した瞬間、学校に着いた途端に俺にあれこれ話し掛けてきていた教師連中に急用を思い出したのでと言うが早いが、さっさとその場を退散し、急いで俺の代わりに本を図書室に持っていった亘を追いかけた。
まさか亘が気づいて“それ”を取り出すことは無いと思ったけれど、もしまかり間違って気づかれて見られたりしたらかなり決まりが悪い。
その写真に写っているのが“誰”か、なんて亘にわかる訳もないのだけれど、もし見られたら好奇心の強い亘のことだから、面白がってあれこれ聞いてくるのは間違いないと思った。そうなるとちょっと面倒くさい。
俺はほとんど駆け足になりながら追いかけていくと、図書室に向かう廊下の真ん中で本を床に散らばして、ボーッと立っている亘の背中が見えた。
「・・・・亘?」
何をしてるんだろうと呼びかけたら、亘はものすごい勢いで驚いて飛び跳ね、俺の方を向いた。
俺は不思議に思いながらも、“写真”の単語は出さずに亘に本に何か挟まっているのを見なかったか尋ねた。
亘はそれを聞くと何故か一瞬、辛そうな表情をした気がしたけれど、すぐ何も無かったよと言ったので、俺はまだ散らばった本の中に“それ”は挟まっているんだなと安心して、あとは俺がやるからと本を亘から受け取って図書室に向かった。
そして図書室で全ての本を調べてみたら、“それ”はどこにも無かった。ページをぱらぱら繰りながら全部の本を探したのに“それ”は出て来なかった。
(まさか・・・亘?)
帰りにもう一度だけ聞いてみようと思って、待ち合わせの玄関で俺はずっと待っていたけれど、亘は何時の間にか先に帰ってしまっていて、その日、もう“それ”のことを亘から聞くことは出来なかった。
それが一昨日、11日の事だった。
そして今日は3月13日金曜日。───中学生活最後の日。卒業式当日だ。
“それ”というのは一枚の白黒の写真のことだ。制服の少女が微笑んで写っているモノクロの写真のことだ。
俺は“それ”をまったくの偶然から見つけた。
ある日、叔母が古いアルバムを整理するからと、ダンボール一杯に入っていたアルバムや写真をリビングのテーブル中に大量にぶちまけ仕分けしている時に、ダンボールの底にその写真がひっそりと張り付いているのを俺が見つけたのだ。
見た瞬間、俺はその写真に写っている少女に釘付けになった。そして無言でその写真を叔母に差し出すと、叔母はあら、という感じで少し困った顔をしながらも、俺に欲しいのか?と、聞いてきたので俺は黙ったまま頷いた。叔母はかすかに哀しそうに微笑むと、あげるわ、と一言だけ言って、また仕分け作業に戻った。
それ以来、その写真は俺のものになった。
───その写真はある意味で俺にとって特別なものだったけれど、特段大事にしていたという訳でもない。借りてきた本の栞代わりにするくらいなんだから、その扱い程度がわかるというものだ。
けれど、言い換えればその写真を、常に目に見えるところにおいて置きたいと思っていたことも、否定できない。
俺はかすかにため息をついた。
亘は今日は朝から、俺に対してほとんど一言も口をきかなかった。
一緒に登校している最中も、学校に着いてからも、いくら俺が話し掛けても、ああ、とか、うん、とか、生返事を返すだけでほとんど上の空でいた。
今日が卒業式だから、ナーバスになっているんだろうな、と、俺は写真のことを聞くのは今日の式が終わった放課後でいいかと思った。
どういうつもりかはわからないけれど、亘が写真を持っているならとりあえず乱暴に扱ったりはしないだろうし、亘の事だから俺を驚かせようとか何とか、そんな多少のいたずらっ気で只隠し持ってるだけなのかもしれないし。
それに亘はこういった節目の行事をやたら神聖化して大切に思うところがあって、そんな日に自分の写真程度のことで亘をあまりわずらわせたくなかった。
俺にとってこういった行事は、只の通過儀礼にしか過ぎないけれど、亘にとっては特別で大切な日をくだらないことでつまらなくさせたくない。
俺にとっては、栞代わりに使う程度の写真よりも亘の方が遥かに大切なのだ。
────それだけは何よりも確かな事実だった。
卒業の式はこれといって何かあるという事も無く、淡々と終了した。
最後の校長の挨拶が想像以上に長かったという事と、その話の中身がこの学校にほとんど満点に近い点数で受験合格したものがいる、という内容だった為、暗に俺の方に他の生徒の視線が一斉に向けられて、多少居心地の悪い思いをしたことがあったくらいだ。
隣のクラスの亘が居る方にチラリと視線を向けると、亘は少し心配そうな顔で俺の方を見ていた。
俺はちょっとだけ片手を上げて、大丈夫だ、と合図すると亘はほっと顔を緩ませて前を向いた。
俺が大人数に注目されたり、接近されたりすることを何よりも苦手とすることを亘は知っている。
そしてそれによって俺が無意味に傷つきはしないかといつも心配していた。
亘は俺が誰かによって傷つけられることを───何よりも恐れてくれていた。
そしてそうならないよう、そんな事が俺を襲ったりしないよう、亘はいつもその華奢な腕を精一杯広げて俺をかばおうとする。・・・・・俺を守ろうとする。
初めて出遭った小学生の頃から。この中学の間もずっと。
そして多分、これからも・・・。いつも。ずっと。どこにいても。きっと。
亘はきっと知らない。その亘の想いが俺の心をどんなに暖めているかを。俺の心をどれほど柔らかく保ってくれているかを。
───・・・・きっと知らない。
式が終わり、最後のホームルームも終わって、女子の写メ攻撃の波から逃れて俺は亘のクラスへと向かった。
俺の叔母も亘の母も仕事の都合で、今日の卒業式にはどちらも出席していない。叔母は何とか休みを取ろうとぎりぎりまで頑張っていたのだが、今任されている仕事をどうしても立場上放り出すことが出来なくて涙を飲んだ。
亘の母も同じような理由で来ることが出来ず、そんな訳で俺達はこの晴れの日を保護者なしで、二人で帰ってくるよう言いつけられていた。つまりは今まで二人だけで帰っていたのとなんら変わらないというだけの話だが。
亘のクラスに行ってみると、亘の姿はすでに無かった。もう先に玄関に行ったのだろうかと、ふと廊下から校庭を見渡したら、グラウンドのはずれの桜の木の下に亘が一人で立っているのが見えた。
その桜の木は学校に何本かある桜の中でも、正直一番貧相で──と、いうかその場所の風向きが悪いのかいつも強い風が吹いて、あっという間に花びらを散らしてしまうので、せっかくの卒業式定番の樹木でありながら一番人気のない桜だった。だからその時もその桜の下には亘以外、他には誰の生徒も居なかった。
「亘?」
俺は卒業証書を無造作にカバンに突っ込みながら、亘の元へと駆けて来た。
いっしょに帰って来いと言われているのだから、亘が一人でさっさと帰るわけは無いと思ったのだけど、なんだか亘の雰囲気がいつもとかなり違う気がして、なんだか俺は心配になった。
卒業と言う節目を迎えたのだから、ナーバスになるのはわかるけれど、なんだかそれともちょっと違う気がして、いつになく大人びて見える亘に俺は少し戸惑っていた。
自分の足元を見詰めるように俯いていた亘は、声をかけられて、ゆっくりと静かに俺の方を向いた。
その向けられた亘の真っ黒な瞳が、どきりとするほど綺麗に澄んでいて、一瞬俺は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
亘はそのまま首を持ち上げると、眩しそうに天を見上げた。額に手をかざして、まるで樹木が空に向かって伸びていくように真っ直ぐ空を見上げた。
「今日の空の色、僕が今まで見てきた空の中で一番青いんだ」
唐突な亘の言葉に何かあるのかとつられて、空を見上げていた俺は思わず目を瞬いて亘の方を見た。
亘はかすかに微笑みながら、手を下ろし俺の方を見ながら続けた。
「僕が今まで生きてきた中で、いちばん青くていちばんキレイ。僕、多分今日の空の色、この先ずっと忘れないと思うんだ」
なんて返事をしていいか解らなくて、俺は無言のまま亘を見返す。亘はまた少し微笑むと制服の内ポケットに手を入れて何かを取り出した。
「あ・・・」
“それ”は例のモノクロの写真だった。亘はそれを壊れ物を扱うように丁寧に俺の手の上に返して寄越した。そして囁くように申し訳なさそうな声で告げた。
「ごめん。勝手に持ち出しちゃって。美鶴の大切なものなのに」
そんな事、一言もいっていないのに亘は俺にとってこの写真がどれほど大切かを確認するかのようにそう言った。そしてまたゆっくりと空を見上げると、まるで夢見るような口調で歌うような声で呟きながら目を閉じた。。
「その写真の空も、今日みたいにきっとすごく青くてキレイだったんだよね。きっと」
サアアアアッ・・・・・。
「そのコにとってその日の青空は、きっと一番青くて一番キレイだったんだよね」
亘は目を閉じたまま、まるで天から今日の祝福に何かが降ってくるから、それを間違いなく受け止めなきゃ、といった感じで両手を高く差し出した。
そのとき同時に空からさやかな一陣の風が吹いてきて、俺達の周りをやさしく舞った。傍に立っていた桜の木の花びらを共にその風息に取り込んで、俺達二人を淡い紅色に染め上げるかのように舞い上がった。
「美鶴が好き」
紅色の花びらが一片、ひらりと亘の唇を掠めていった刹那、亘の唇から花びらのようにはらりとその言葉は舞い落ちてきた。
俺はあまりにするりと舞い落ちたその言葉の意味がしばらく理解できなくて、手に写真を握り締めたまま、まだ目を閉じて両手を掲げている亘を只、じっと見てしまった。
「美鶴が好き。・・・大好き」
亘は確かめるようにゆっくりゆっくり、両手を下ろし、その手を自分の胸の前でクロスさせながらギュッと握り締めて、祈るように呟いた。
「美鶴の空がいつでもいちばん青くあるように、いつでもいちばんキレイであるように、いつでもその空から光が降り注いでくるように・・・そう、出来るように───僕は傍にいたい」
そして静かに両の目を開くと、それを告げてもいいのだろうか、それは許されることなのだろうかと、ほんの少しだけその瞳を濡らして揺らしながら、亘は桜の花びらが舞い降りる中、真っ直ぐ俺を見て言った。
「永遠に───いたい」
“永遠に”
伝えきれない想いが、表しきれない想いが───その一つの言葉に結晶して、まるで宝石になって亘の口から零れ落ちたかのように俺は感じた。
そしてそう感じた次の瞬間、俺は亘に勢いよく駆け寄って、気がつけば自分の腕の中に亘を強く強く抱きしめていた。俺達の足元にひらりひらりと桜の花びらが一片、また一片と降り積もる。
亘はほんの少し震えながら、かすかにかすれた声で言った。
「僕じゃ・・無いかも、知れないんだけど・・・いつか他の誰かが・・・美鶴の傍に、いて・・・美鶴の傍にいるのは・・・僕じゃない、誰か・・なのかも。・・・でも」
「亘だよ」
俺は溢れそうになる想いを、痛いくらいの喜びをどんな言葉で伝えればいいのか、まるでわからなかった。だから只亘を抱きしめる手に力を込めて、その何のひねりも無いただのストレートな言葉を繰り返し伝えることしか出来なかった。
「亘だよ亘だよ・・・亘がいい、亘しかいらない。・・・・俺は亘がいい。亘が傍にいればそれでいい・・・・・亘が、いい」
さわさわと春の優しい風が、桜の花びらを舞い上げながら俺達を囲んでいる。
他には何の音も聞こえなくて、天空から降り注ぐ青い光りと頬を優しく撫でる風だけが今、俺達の周りに存在していた。
亘はゆるゆると両手を伸ばしてくると、それを静かに俺の背中に回し、そっとそっとその手で俺の背中を抱きしめてきた。優しく。柔らかく。俺の全部を受け止めるように。青い空から降り注ぐ光のように。包むように。
「大好き・・・」
その言葉が亘の口から紡がれたのか、俺の口から漏れたのか、俺達はもうわからなかった。
音も無くゆるやかに降り続く桜の花びらだけが、今この時の二人の時間の流れを伝えている。
「本とは聞くのどうかなって、思ってるんだけどさ・・・でも、やっぱ気になるんだ。
あのさ、じゃあ、あの写真の子は誰なの?・・・大切に持ってた写真なんだろ?・・・大切な子が写ってるんでしょ?」
二人で並んで帰りながら、物凄く恥ずかしそうにそして嬉しそうに、でも実は少しふてくされてます、といったなんとも複雑な表情を次々浮かべながら、亘が口を尖らせて聞いてきた。
俺は亘から返された後、亘のように自分の制服の内ポケットに仕舞っていたそれを取り出すと、それを亘に見えるように差し出しながら苦笑して答えた。
「これ、母さんだ」
「・・・え?!」
「俺の・・・お袋だよ」
「え・・えええっ?!み、美鶴のお母さん?!」
亘はそれこそ鳩が豆鉄砲食らったような顔をして、暫くその場から動けなくなっていた。
それこそ高校の数学の受験問題にフェルマーの最終定理が出題されていたといったくらいの驚愕で、どうにも次のリアクションが取れないようだった。俺はそれを見て更に苦笑すると、写真を見ながら呟くように言った。
「俺の父さんが中学生時代に写真部で・・・その時母さんを写したって話だ。同じ中学だったんだよ。
・・・その時の中学の写真部は予算とかの問題で皆、白黒写真を撮ってたものなんだって、叔母さんが言ってた」
亘はやっと最終定理の呪縛から逃れたのか、俺が持っているその写真にそっと自分も手を寄せてくると、覗き込むように写真を見ながらポツリと呟いた。
「卒業式だよね・・・?」
「そうだな」
「・・・・・・お母さん、キレイなひとだね」
「・・・ああ」
「すごくすごく幸せそうな笑顔だよね」
「・・・・・そうだな」
「写してくれた人のことが・・・大好きだったんだね」
「・・・・うん」
亘はそっと俺の腕を取ると、俺の肩に擦り付けるように頭を寄せてきた。俺は目を細めると寄せられた亘の頭に片手を伸ばして髪の毛をクシャリとやる。亘はくすぐったそうに笑うと、確信に満ちた声で静かに告げた。
まるで光に溶けていきそうな優しい優しい声音で。
「この時の空も今の僕らの空と同じで、きっととても青かったよ。きっといちばん青くてキレイだったよ」
亘はさっき写真を返してきた時にも言ったのと同じ台詞を、もう一度力強く繰り返した。
俺と亘は立ち止まると、二人同時に空を見上げた。
果てしなくどこまでも高く青く広がる無限の空がそこにあった。ところどころに白い雲を風になびかせながら。
いつでもいちばん青い空がそこにある。
時が流れて俺達が大人になっても、いつでもいちばん青い空はいつだって自分達の真上にある。ときに心が空に浮かぶ雲のように漂ったとしても、それを受け止める青い空はいつだって俺達の上にある。
そうだな────と、小さく呟いた俺の声を、空からの風が静かに拾い上げ、そして───遥か高い空の彼方に運んでいった。
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