僕らの変わらない場所~Three years later~「あの桜見に行かないか?」
図書館で受験の為の参考書を睨みながら、うんうん、言っていた亘は、目の前の美鶴が頬杖を着きながら唐突にいった一言に顔を上げた。
「桜?」
「小村や宮原と俺と・・・小5の終わりの春、4人で、行っただろ?覚えてるか?」
「・・・あ、ああ!うん、覚えてるよ。森の中の桜・・・僕たちの名前を刻んだ桜のことだね?」
美鶴は目を細めるとコクン、と頷いた。
───小学校5年の最後の春。美鶴がいきなり4人で花見をしたいと言い出したのだ。
しかも見たいのはただの桜ではなかった。その桜があまり人のこない、出来るだけ周りに建物が立っていない静かな場所にあるものであること。
そして何よりも。───樹齢が百年以上の桜の木である事。だった。
しかもそれを美鶴は、亘と二人きりでではなく、カッちゃんや宮原も一緒に4人で見たいと言ったのだ。
美鶴がそんな事言い出すとはと、宮原は天変地異の前触れかと戦々恐々とし、亘は常にない美鶴の謙虚なはにかみ加減に胸をときめかせ、カッちゃんは、おっしゃー!俺に任せとけ!とおお張り切りをした。
そしてその通りの桜の下で花びら舞う中、4人で花見をしたした後、美鶴が持ってきたナイフでその桜の幹にそれぞれ4人の名を刻んだ。───あの桜のことだ。
「でも、美鶴・・・今見に行っても・・・」
亘は美鶴の急な提案に言いよどんだ。
亘たちは今中3。受験生だ。そして今は2月。受験本番までもうあとわずかという時期だった。つまり桜の花などまだ咲いてはいないはずだ。
「わかってる。花は咲いてないだろうな。・・・・ただ見に行きたいんだ」
「花見をしたいわけじゃないの?」
「今度の日曜、小村や宮原誘って見に行こう」
「え、ええ?今度の日曜?!・・・で、でも・・・」
「いやなのか?」
「い、いやっていうかさ・・・だって・・・」
その3日後が受験の当日じゃん!と、言う台詞を亘は言うことができなかった。自分を真っ直ぐ見詰めてくる美鶴の瞳が余りに切ない色をたたえて震えていたからだ。
亘が美鶴のする表情の中で一番苦手な、まるで迷子の小さな子供のようなその瞳に、亘は心の中でほんの少しだけため息をつきながら苦笑して、こくんと小さく頷くしかなかった。
「うん。わかったよ。皆で行こう」
美鶴はそれを聞き、子供がただいまを言って母の胸に飛び込んだ時のような、安堵感に溢れた微笑を浮かべた。
「何だったって、受験が目の前っつー、今日なんだよ?母ちゃんに言い訳スンの大変だったんだからなー!あああ、最後の追い込みが・・・・!」
「よく言うね。小村。今更どうあがいたところで、たいした変わりは無いんじゃないか?」
「宮原っ!お前はエスカレータ式で黙ってたって高校上がれるんだからいいだろーよ!こっちゃ、一生がかかってんだぜ?」
「・・・とか、いいながらカッちゃんのリュックが一番大きい気がするんだけど。お弁当は僕が用意するって言ったのに、そんなに何を持って来たのさ?」
「え?決まってんじゃねーか!おやつだろ?探検用の懐中電灯に、水筒。デジカメ。DS。トランプ。それと・・・」
「相変わらずだな」
美鶴が自転車を片手に支えながら、あきれたように呟いた。宮原と亘は顔を見合わせて吹き出していた。
宮原は亘たちとは違う、高校までエスカレータ式の私立中学に通っていて、高校受験は無い。急な亘のこのピクニックの申し出に喜んで二つ返事をして来て、今日は本当に久し振りに会ったのだった。
カッちゃんとは、なんだかんだ言っても同じ中学なので、小学校の時のように頻繁にあそんだりしなくなってはいたけど、顔はしょっちゅう合わせていた。けれど宮原は進学校だった為、普段から勉強に忙しくほとんど会えなくなっていたのだ。
そう考えると4人が揃うのは大袈裟じゃなく、何ヶ月ぶりだった。下手すれば一年以上経っているのかもしれない。
ましてや小学校の時のように、皆で自転車でピクニックに行くなんて───亘はもう目と鼻の先の高校受験に抱いていた不安が今日ばかりは掻き消えて、心のそこから楽しい気持ちが湧きあがってくるのを感じ、思わず笑いが零れてしまった。こんなうきうきした気持ちは何日ぶりだろう。
「じゃあ、行こう」
まだ肌に感じる空気には若干冷たさが残っているけれど、照りつける太陽が確実に穏やかさを増した日差しに変わっている中、4人は意気揚揚と自転車に跨った。
「あれ・・・?」
自転車で暫く走って、例の桜の木のある郊外の森の入り口についた時、亘は自転車から降りてしばし佇んでしまった。
「ここだったよね?・・・・前、こんな看板あったけ?」
亘から少し遅れて次々と残りのメンバーが到着し、亘が不思議そうに見詰めているその立て看板の文字に目を凝らした。
“分譲マンション建設予定地立ち入り禁止”
カッちゃんや宮原が眉をひそめて、顔を見合せた。美鶴は自転車を道路の端の方に止めると、その立て看板を無視して森の中へとさっさと入っていく。
「あ、美鶴!待ってよ」
亘は自分も慌てて自転車を道路の端に寄せ、カギをかけると荷物を肩にぶら下げ美鶴を追いかけた。
宮原とカッちゃんも急いでそれに続く。途中カッちゃんはわざとらしく大きく足を振り、その看板を蹴飛ばすと斜めにそれをかしがせていた。
「美鶴!待ってよ。待ってってば!」
美鶴は亘の声が聞こえているくせにそれには答ようとせず、どんどん先に進んでいった。亘は小走りになりながら必死に美鶴の後を追いかける。
森は徐々にその木々の数を減らしたかと思うと、やがていきなり大きな原野を目の前に出現させた。
「あ・・・」
まだ春を迎える前の、ほんのりグリーン色にその葉を色づき始めさせた木々達を、歩兵のようにぐるりと遠巻きに囲み従えながら、その桜は優美に原野の真ん中に立っていた。
ただしその周りにはまるで桜の精が逃げ出さないようにと言わんばかりに、注連縄のごとき太いロープが張り巡らされていた。そしてそのロープには大きな紙切れが張り付けられており、こう書かれていた。
“3月末伐採予定”
美鶴が立ち止まったので、それに続いて亘や宮原やカッちゃんもその場に立ち止まる。そして皆で暫し数メートル先のその桜の木と、風になびくその紙切れを交互に見詰めてしまった。
桜の木には当然、まだ花どころかつぼみも付いていない。ただその長くて細い枝枝をなよやかに空に向かって伸ばしているだけだ。
美鶴がゆっくり一歩を踏み出して、桜の木に近づいていった。亘たちも何も言わず、静かにそれに続く。
美鶴は桜の木の傍まで来ると、張り巡らされていたロープの下をくぐり、桜の元へと更に寄った。そして桜の木を見上げてから、そっと手でその幹に触れる。そしてゆるりと木の周りを半周すると、ある場所でぴたりと止まった。
「あった・・・」
美鶴が愛しそうに触れているその手の先に、それはあった。かすかに朽ちている部分もあったけれど、それでも確かにその幹肌にそれはきちんと残っていた。
────4人の名前。
───4人がここに来た証。共に同じ時間を過ごした証。ここに共に存在していた証。彼らがこの世界に今、時を同じく存在する証。
ミツル ワタル カツミ ユウタロウ
僕らの名前───だ。
「へー・・・ちゃんと残ってるものなんだな・・・」
ロープをくぐって桜に近づいてもいいものかどうか、美鶴と違って常識と相談していた亘たちもその名前の刻印が残っているとわかった途端、見たい気持ちを押さえきれなくなり、何時の間にか美鶴のすぐ後ろまでやって来ていた。
そしていつもならこんな状況の時、ここぞとばかりに茶化し始めるだろうカッちゃんが、なんだか感慨深げにそう呟いた。
亘や宮原も指先を伸ばすと、そぅ、と自分の名の刻み目に触れる。それは間違いなく自分達の名前なのに、まるでもう何百年も昔からこの木に掘り込まれていたような、そんな錯覚を感じてなんだか少し震えてしまった。
「いつ、知ったんだ?・・・芦川」
宮原が刻まれた自分の名前から目を離さないまま、静かに美鶴に問い掛けた。美鶴も宮原の方を振りかえろうとせず答える。
「・・・・先々週。たまたま叔母と用事でこっちの方を車で通った時にな。見間違いかと思いたかったけど。・・・そうじゃなかったみたいだ」
「・・・そういや、俺もチラッとうちの店で聞いた事あったなー。春くらいにどっかの森林を大々的に伐採して、新しいベッドタウン作るとかってさ。・・・・ここのことだったのかよ」
「・・・・この森、無くなるの?この桜の木、切られちゃうの?・・・じゃあ、この桜の花をもう見れないって事?」
悲痛と言ってもいいような声で亘がそう問いかけてきた言葉に、皆一瞬、戸惑って押し黙ってしまった。
樹齢120年の桜の木。
亘たちが生まれるよりずっとずっと前からここに立っていた桜の木。
ほんの少し昔まではその傍には神社が建っていた。戦争がおきて、戦災で神社は焼け落ちても神木たるこの桜の木は残ったのだ。
人々の哀しみや幸福を見詰め続けながら。この森の木々たちや、小鳥達が囁く噂話に耳をそばだてて聞き取り続けながら、ここに女神のように鎮座してずっと・・・・。だからこそ。
ならばこれからもこの先、きっときっとずっとここに立っているだろうと。そう願って、そう祈りを込めて───だから・・・・自分達の名をその桜が刻む時と共にと、・・・・・刻んだのに。
「どうして・・・・」
それ以上の言葉を紡ぐことが出来きないのか、亘は自分の名前の刻印を確かめるように指でなぞりながら、ポツリと悲しそうに呟いた。カッちゃんが両手を頭の後ろに回し、足元の石をあちこちに蹴飛ばしながら、わざとらしく大きな声で苦々しく叫んだ。
「全くよー!大人のやることって、わっかんねぇ!マンションなんてあちこちに建ってるジャン!わざわざこんなきれいな桜の木がある森、伐採なんかしてまで建てる事ねーだろーによ!今の流行はエコだぜエコ!」
「何だかんだ言ったってこれだけの土地だからね・・・。儲かる為ならなんだってやるさ。所詮は利益が優先だよ。大人の社会なんてそんなものなんだから」
「バッカみてぇ!」
「そんなバカな大人に俺達もなるんだ」
最後に美鶴が、いっそ穏やかと言えるほどの声音でそう呟いたのを、宮原と亘とカッちゃんは驚いた顔で一斉に見詰めた。
美鶴は誰の顔を見ようともせず、まるで変えることの出来ない条文を、諦めの境地で読み上げるかのように言い放った。
「俺達だっていつまでもこのままじゃない。・・・年をとってどんどん大人になって行く。いつまでも子供のままでいられる訳じゃない。・・・・そういう大人に、俺達も・・・なるんだ」
「美鶴・・・」
「何言ってんだよ。俺はそんな大人になんか、ならねーっつの!小村克美様はいつまでも純粋な子供の心を持ち続けるんだからな!大人になったからって変わらなきゃいけないわけじゃなし。
まあ、でも今はそんなの言ったってはじまらねーだろ?せっかく来たんだから花は無いけど花見始めようぜ!」
こんな状況を少しでも明るくと、思ったのかカッちゃんが殊更おどけたような声でそう言った。
美鶴は大きく肩をゆすらせて、これ以上ないくらい深いため息をついた。そして明らかに侮蔑したような口調でカッちゃんの方を見もせず、独り言のように呟いた。
「・・・相変わらず、バカは単純でいいな」
「何だとっ?芦川、今何つった?」
「何度でも言ってやる。そんな単純な問題じゃないだろう?ここが無くなるんだぞ?バカな大人達のせいで。それでいいのかよ?」
「そりゃ、・・・でも、大人達が決めたんなら俺達にはもうどうしようも無いじゃんかよ!確かに残念だけどこの桜の木に付けた名前だって、半分はガキの頃のお遊びでやったようなもんなんだし。・・・・いいじゃんか!そんなにまた俺達の名前残したいんならまたどっかテキトーな木にでも彫れば。!」
「適当な・・・?」
美鶴は物凄い勢いでカッちゃんのほうを振り返ったかと思うと、思わず息を呑むようなきつい瞳で睨みつけてきた。
「そんな程度のものだったのかよ?お前らにとってはこの桜の木なんて、・・・そんな程度の意味合いしかなかったのか?」
「美鶴・・・」
「変わっていくことも・・・変わってしまっても・・・大切な場所が。それでもかまわないのかよ・・・?」
美鶴とカッちゃんのやりとりを、どうすればいいのかと見ていた亘は、美鶴が搾り出すように出したやりきれないほどの悲しい声に思わず前に出て、その背に手をやろうとした。
けれど美鶴はその手を弾くと、俯いたまま両のこぶしを握り締め、次の瞬間───普段の美鶴からは考えられないくらいに感情を顕にして叫んでいた。
「・・・なんで変わらないままじゃいられないんだよ。どうして、変わらないまま・・・大切な場所をとっておく事、・・・出来ないんだ!」
───・・・・・・あ。
亘は美鶴の、まるで小さな子が泣きそうになって、駄々をこねるように全身から吐き出されたその言葉を聞いて、息が苦しくなるくらい胸を締め付けられた。
宮原とカッちゃんがいなければ、もしかしたらその両腕を伸ばして美鶴を抱きしめていたかもしれないほどに。
「美鶴・・・」
そして俯いていた顔をわずかに上げた美鶴の顔は、本当に幼い小さな男の子が迷子になって、どうすればいいのかわからないような、悲しい悲しい色をそのきれいな瞳にたたえていた。
───泣きそうな泣きそうな瞳をして・・・・帰るべき場所を探している小さな小さな少年の顔をしていた。
暫くそのまま唇を噛み、立ち尽くしていた美鶴はつと後ずさり、顔を伏せたままくるりと背中を見せたかと思うと、皆で来た森の道を足早に戻って行ってしまった。
亘たちは何故だか動くことが出来なくて、美鶴を追いかけることも出来ずに、去っていく後姿をただボーっと見つめてしまった。誰も何も言うことが出来ずに、無言のまま暫く桜の木の下でただ佇んでいた。
宮原が金縛りから解けた様に最初にゆっくりと動き、桜に近づいて手を伸ばすともう一度桜の幹の自分達の名前に触れ、そっと撫でた。
「・・・多分、芦川が一番ショックだったんだろうな」
宮原のその言葉に亘とカッちゃんも顔をあげ、ゆるゆると動いて宮原が触れている自分達の名前の刻みをじっと覗き込んだ。
「俺達が思ってるよりずっと、・・・・この場所が。この時の時間が。そして4人で名前を刻んだこの桜が・・・芦川には大切なものだったんだ。きっと・・・」
宮原のその言葉に、カッちゃんはばつが悪そうに鼻をこする。亘は知らず知らずのうちに、こくんと何度も頷いていた。
そしてまだ花も咲かせていない目の前の桜の木を見上げると、ふいに押さえ切れない何かが一気に胸に込み上げてきて、気がつけば頬に熱い涙の一滴を零していた。
「も、無理なのかなぁ・・・」
「・・・三谷」
「今からでも・・・この森や、この桜の木、守ること、出来ないの・・・かな。無理なのか、な・・・」
「亘・・・!」
堰を切ったように次々溢れてくる涙を、手の甲で拭いながら途切れ途切れに亘は言った。カッちゃんが素早く亘の隣に駆け寄ると、その肩に手をやり心配そうに顔を覗き込む。
こんな時どうやって慰めたり、言葉をかければいいのかなんて皆目わからず、カッちゃんは救いを求めるように宮原を見た。
「・・ったくもー!本とならいつもはこういう役が芦川だろーがよ!あいつが泣かせていなくなってどーすんだ。・・・宮原ぁ、どうにかなんねーのかよ?」
「うん・・・でも多分、もう無理だろうね。ここはもともと、焼け落ちた神社の所有物なはずだけど、マンション予定地になったって事はそれが不動産に売買されたんだ。こう言ったマンションの売買ってすでに予約制で売りに出してる事が多いから、そうなると建設を止めさせるってのは至難の業なんだよ。・・・それこそさっきの小村の台詞じゃないけど俺らみたいな子供にはどうすることも出来ないな」
「やっぱ、そーなのかぁ・・・?」
宮原の答えに亘の肩を支えたまま、カッちゃんは明らかに落胆する。宮原も残念そうに首を振り、ため息をついた。亘はこみ上げてくる涙をどうすることも出来ずにしゃくりあげた。
大切な場所。大切な想い。大切な、僕らが4人で同じ時間を過ごした───これからも、ずっと想いは一緒だと言う証の・・・・その証の場所。その証が刻まれている桜の木。
春には春の。夏には夏の。秋には秋の。そして冬が来てまた春が巡って。絶える事無い季節の流れを僕たちの名前と共に。幾十、幾百、幾千の時を共に。
───そう、思っていたのに。そう願っていたのに。
───そう、そしてきっと、美鶴は誰よりも。きっと。
さわさわとまだ肌に冷たい春の前の風が、3人の間を吹き抜ける。何も言うべき言葉が見つからなくて、3人は無言のままで居た。
葉さえもつけていない桜の細い細い枝先だけが、静かに静かに揺れながら・・・・そっと3人を見詰めている。
亘は目の端にまだほんの少し、涙をにじませながら風に揺れるその枝をじっと見ていた。
けれど次の瞬間、亘は大きく目を瞠っていた。
そしてある一本の枝の一点を、食い入るようにジッと見詰め、そして慌ててゴシゴシと目をこすり、また顔をあげ目をこすった。いきなり亘がそんな行為を何度も繰り返すので、宮原とカッちゃんは次第にいぶかしげな顔をして心配そうに亘の顔を覗き込む。
「おい、みた・・・」
「カッちゃん!宮原!お願いがあるんだけど!」
泣いた後の真っ赤な目を心なしか煌かせながら、息を弾ませると亘は興奮したように宮原とカッちゃんに向かって叫んでいた。
その後は何せ受験がすぐだった為、現実的であわただしい日々に突入してしまい、しばらく4人で揃って会うことは出来なくなった。
あんな事があった後だったけれど、亘と美鶴は(もちろんカッちゃんも)無事に高校に合格した。二人は同じ高校に受かったので、毎日顔をあわせてはいたけれど、お互い始まった新しい生活に慣れるのに精一杯の日々を過ごしていた。
そうこうしているうちに緩やかに時は流れて行き、次第に肌に感じる温度が暖かいものへと変わり、気がつけばあちこちで桜の花が満開になっていた。
美鶴はあれ以来、桜の木の話はしていない。あの桜でなければ、花見をする気にもなれないのか、近くに咲いている桜を見に行こうとかいう、話題さえも口にしなかった。
亘も自分からあえてそう言った話はしてこなかったから、もう今年はきっと桜を見ることはないだろう、と少し寂しいけれど、仕方ないだろうと美鶴はもう諦めていたのだった。
「美鶴、今度の日曜時間ある?」
そして慌しい日々がなんとなく落ち着いてきた頃。亘が高校からの帰り道、急に聞いてきた。
「日曜?別に何の予定も無いけど・・・何かあるのか?」
亘は小首を傾けて、美鶴を見詰めると意味ありげにニッコリ笑う。
「秘密。でもとってもとっても素敵なことがあるよ」
ふと、気がつけば───皆であの森に行ってから、ちょうど一月近くが経っていた日の事だった。
その週の日曜日。美鶴は亘の指示の元、城東小学校の校庭に向かっていた。
何があるのか何度亘に聞いても、亘は嬉しそうに微笑んでで「来ればわかるよ」と、いう台詞を繰り返すだけだった。
小学校に来るまでの道すがら、美鶴は公園や人の家に庭に咲いている桜の木を何度も眼にした。今日は穏やかな暖かい天気で、空からの日の光はまるでシャワーのようにキラキラと降り注いでいる。
目にする桜はそのどれもが綻ぶ様に満開の花を咲かせ、その薄紅の花びらを人々の上に舞い散らせていた。
けれどどんな桜の木も───あの森の桜の女神のような気高い優美さには適わない。あれほどの降るような、満開などと言う言葉では言い尽くせない───天を覆うような見事な量の桜の花を、あの森の桜以外に美鶴は見たことが無かった。
───きっともう、あの桜は切られてしまったのだろう・・・。
美鶴は顔をかすかに俯け、自分の足元を見詰めながら、もう桜の木が目に入らないように歩いて行った。
小学校の校庭に着くと、そこに亘は居なくて変わりに宮原が一人でいた。美鶴は眉を寄せると、それでもあきらかに無関係な訳は無い宮原に近づいていった。
「よお」
「宮原、なんで・・・亘に呼ばれたのか?」
「まあ、正確に言えば違うかな。俺達3人がお前を呼んだってのが正しい」
「3人?」
「美鶴!」
美鶴が更に眉根を寄せたとき、背後から亘が大きな声で自分の名を読んだのが聞こえた。
美鶴が咄嗟に振り返ると、そこには手に何やら大きな鉢を持った亘と、腕と頬に痛々しいまでの真っ白い包帯をつけたカッちゃんが、こちらに手を振り、二人で全開の笑顔を浮かべて立っていた。
「亘?小村も・・・?」
何が始まるのかわからず、ポカンと不思議そうに美鶴が目を見開いていると、亘が近づいてその手に持っていた鉢をそっと美鶴の前に差し出した。
美鶴は差し出されたその鉢に目を凝らし、そこに植えられている“それ”を見つけて、今度は驚きで大きく目を見開く。亘は美鶴に優しい笑顔を浮かべると嬉しそうな声で言った。。
「これね。あの時、美鶴が行っちゃった後、僕が見つけたんだよ」
亘が鉢に生えている“それ”を愛しそうに見詰めながら、そっと続ける。
「僕、びっくりした・・・。だってあんな時期に桜が枝に葉やつぼみつけるなんて、普通ありえないもんね。だからこれはきっと桜が僕らに見せた奇跡。僕らのためにくれた・・・きっとキセキだと思ったんだ」
「そんで俺がまたあの森に行って、あの桜が切られちまう前によ。得意の木登りでその枝を取って来たって訳さ!」
「得意な割には、2,3度落っこちて、その痛々しい包帯姿になったけどな」
「宮原~!」
「・・・宮原が一生懸命調べてくれたんだ。その桜の木の枝を切った後、どうしたらいいかとかを!挿し木にして大切に育てればまた土の上に植え替えることも可能だって。
・・・・・何年後かにまた大きな桜の木に育てることも出来るはずだって。それで今まで僕教えてもらったとおり毎日真剣に世話してたんだ。そしたら・・・・」
亘は差し出していた鉢を今度は美鶴の目の前にまで、高く掲げる。
美鶴の両の瞳の前にそのちいさな薄紅色の花びらは、小さく震えて見えた気がした。はにかむように面映そうに、その小さな姿でまるで美鶴に向かってお辞儀するように。
「つぼみの花が咲いたんだよ・・・」
鉢から斜めに生えている枝の先にたった一輪。───それは花開いていた。
薄い薄い淡紅色を。清かな清かな花弁を───そっと翻して。美鶴の目の前に確かに。キセキのように。
「美鶴・・・」
その桜色の一片とおなじくらい淡くて優しい微笑を浮かべて、亘は穏やかな声で、でも力強い確かな声音で美鶴に告げた。
「無くなってしまうなら僕達で作ろう」
美鶴が顔を上げて亘を見る。亘は真っ直ぐ美鶴を見詰めながら、祈りを誓うように続けた。
「変わらない場所。変わらない大切な場所を・・・自分達で作ればいいんだよ。僕達で作ろう」
「宮原が小学校の校長をうまいこと丸め込んでよ。この桜の枝がもう少し大きくなって植え替えれるようになったら、この校庭に植えていいって事になったんだゼ!」
「丸め込むとは人聞きの悪いこというなよ。寄贈しますからって、お願いしたんだよ。ま、だから今日はその下見でもって思ってさ。何だかんだ言っても小学校(ここ)は俺らが一緒に過ごした場所だし。その桜を植えるにはふさわしいだろ?」
「ここならもう、きっとこの桜の木が切られちゃうことは無いよ。だから木が育って大きくなったら・・・その時また4人の名前を刻もう?」
亘はそう言うと美鶴の手をそっと取り、その鉢を美鶴の手に静かに持たせる。美鶴は鉢に生えているその枝をじいっと見た。
まだまだ細くて背の低い桜の枝が、それでも力強く鉢から空に向かってその身を伸ばしている。
まるでこれからの未来を祝福するみたいに。
美鶴は鉢から顔を上げると、亘たちの顔をゆっくり見渡した。3人がそれぞれ美鶴を優しく見詰め、その顔に嬉しそうな笑顔をたたえていた。
これからも一緒にいよう。これからも同じ時間を過ごそう。たとえすぐ傍にはいなくても。───変わらない場所。変わらない大切な想いと時間を───共に過ごそう。
そう無言のうちに語りかけながら。
美鶴は眩しそうに目を細め、そして微笑んだ。3人に向かって。煌く光の中で。美鶴自身が光のように輝いて。
───これ以上ないくらいの幸福そうな、嬉しそうなキレイな笑顔で。
有り得ないはずのキセキ。起こるはずの無い奇跡。でもそれは確かに起こった。僕ら4人の共に過ごす時間の中で。たしかに存在した。
───たしかにたしかに・・・・僕ら4人がキセキを起こしたんだ。
だから。
4人が初めて出会った場所。4人で大切な時間を過ごしたこの場所から・・・また始めよう。
「でもよー、名前かけるくらい木がでかくなる頃って、俺ら本とオジサンじゃね?」
「まあ、いいんじゃないか。記念みたいなもんだし。・・・・それより俺は、そんな年になっても三谷が芦川に膝枕してそうでそっちの方が心配だ」
「な、何いってんのさ?宮原!」
「そんなのに年なんか関係ない。大体今だってしょっちゅうやってるし」
「わあっ!バカ!美鶴ーー!」
4人で帰る帰り道。まるで小学校の時のように、はしゃいで騒ぎながら。
4人のシルエットがもう傾いてしまった陽に映し出されて、何度も重なりながら。
美鶴の手にしっかりとある鉢の桜の枝だけが、その4人の嬉しそうで楽しそうな姿を見詰めながら、何度も何度も幸福そうにそっと───その花びらを揺らせていた。
僕らの変わらない場所。僕らの大切な場所。───願いと祈りを込めて。
───どうかどうか・・・・・いつまでも。
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