幸福のキャッチボール
「こっちこっち!お父さん!ほら早く投げて」
亘はグローブをはめた手をを大きく振って呼びかける。
「よーし。今度はちゃんと受け止めろよ」
日が少し傾き始め、茜色になった雲はふたりに少し影をつける。
こうやってキャッチボールをしていられる時間もあとわずかだ。
マンションの中庭で、亘と父の明はキャッチボールをしていた。
亘は4年生になって初めて野球用のグローブとボールを買ってもらった。カッちゃんがよくおじさんとしてるのを見てずーっとうらやましくて何度も買って欲しいとお願いしていたのだけど、母邦子は思ったより硬い野球ボールに驚いて、あぶないわ。だめよ。まだはやいわ。顔や頭にあたって怪我でもしたらどうするの。と、なかなか許可を出さなかったのだ。
大丈夫だから。大丈夫だから!と亘は何度も言ったのだけど、そのうちね。そのうちねとはぐらかされるだけだった。
父はその光景を何度か見ていたが何も言わず、いつも通り新聞を見ているだけだったから、亘はもう半ば諦めかけていた。
それが。昨日の土曜日。
いつもより珍しく仕事を早く終えて帰ってきた父が、明日は久し振りに休みが取れたから、亘。キャッチボールをしようと、キッチンテーブルの上に紙袋から新品のボールとお揃いのグローブが出されたときの亘の驚きようはなかった。
母が危ないわ、と文句を言うと子供用の軟式ボールを買ったし、それに俺がちゃんとついて教えるから大丈夫だと、父はキッパリと言った。
それを聞いた亘は嬉しくて嬉しくて、ありがとう!お父さん!と、思わず父に飛びついていた。
そしてその日の夜は明日が待ち遠しくて待ち遠しくて・・・なかなか眠る事ができなかったのだ。
「ほら、ほらよくボールを見て!」
ぎこちない手つきでボールを受け止める亘に、ゆるいボールを投げながら父は笑った。
いつもいつも仕事で帰りが遅く、帰宅すれば夕飯を食べながらただ新聞を読んでムスッとしている父が、いまは亘と笑いながらキャッチボールをしていた。
亘は新品の真っ白い野球ボールや、それを受け止める硬いグローブを手にしている事はもちろん、何よりも父とキャッチボールをしながら笑いあっている事が、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
胸がドキドキしてワクワクして。
もうそんな小さな子供じゃないのに、はやる心を押さえられなくて。
───多分、幸せって言葉はこういうときに使うんだ、と。全身が幸福感に満たされて顔が綻ぶのを止められなかった。
「あらあら。やってるわね」
「あ、お母さん!」
声のする方を振り返ると、亘の母、邦子がスーパーの大きな袋を両手に抱えながら立っていた。
亘は駆け寄ると母の手を取り、興奮しながら一気にしゃべる。
「すごいんだよ!お父さん、普段はあんなにボーっとしてるのに、すっごいキャッチボール上手なんだ!コントロールはばっちりだし、ボクがどんなに変なとこに投げてもちゃんと受け止めるし!」
「普段はボーッとは失礼だな。亘」
「あら、でも否定できないわよねぇ?」
邦子はスーパーの袋を中庭の茂みの傍に置くと、亘が持っていた子供用の軟式ボールを貸して、と言って受け取る。
「あらほんと、思ったより堅くないのね。これなら多少何かに当たっても大丈夫かしら」
「まあ、どちらかというと子供が草野球に使うような物だからな。さ、もう日が暮れてきたし。亘、後少しで終わりにしよう」
明は邦子からボールを取ると、そう言った。亘が思い切り不満そうな声を上げる。
「ええー、まだいいじゃん!もっとやろうよ・・・こうやってお父さんと、キャッチボールやれる事なんてそうそうないのに・・・」
「また次の休みが取れたらしてやるさ」
「・・・・本当?」
「ああ、約束する」
「お父さんの約束って当てにならないものねぇ。ねぇ、ちょっともう一度そのボール貸して」
邦子は明が持っていた野球ボールを今度は半ば奪うようにして取り上げ、片手に持って野球選手宜しく握り締めその手を振り上げた。
「どう?お母さんのフォームもなかなか様になってるでしょ?亘、今度はお母さんとキャッチボールしない?」
「ええー?やだよ!野球はオトコドウシでするもんなんだから。返してよ!お父さんとキャッチボールする時間無くなっちゃうよ!」
「あら、それは女性蔑視の発言よ?亘!お母さんだってこう見えても学生の頃はソフトやってたりしたんだから。ちょっと投げてみるから見てなさい」
「無理するなよ」
「無理じゃないわよ!ほら、あなた、あっち行って構えてちょうだい。亘に私のプロ選手並みの投球フォームを見せるんだから!」
明は苦笑いすると、やれやれといった感じで仕方なく邦子から距離を取り、ミットを構えた。
亘はしばらくブツブツ言っていたけれど、気が付けば夕暮れの黄金色が自分達家族を彩るように降りそそいでいるのを見て、まるでいま、この中庭が自分達家族の為だけに特別に存在しているような気がして、またさっき感じた幸福感がじんわり自分を覆っていくのが解った。
亘は自然に笑みが零れるのを抑える事が出来ず、口に両手を当てて今度は母を応援していた。
「がんばれー!お母さん!」
「いくわよー・・・それっ!」
あれ?
邦子が投げたボールは黄金色になったお日さまに向かって、大きく弧を描くと中庭の茂みを飛び越え、マンションの部屋の窓が並んでいる奥まで飛んで行ってしまった。
「ああ、まずいぞ!」
明がそう叫んだのと、ガラスが割れるガシャーン!と言う音が響いたのは同時だった。
その音を聞いた途端、邦子は真っ青になって立ち尽くす。亘はボールを投げられた角度から、多分ガラスを割っちゃったのは一番奥の部屋にいる山田さんのお宅だと思った。
お爺さんとお婆さんの二人暮らしで、亘達が中庭で遊んでると、よく話し掛けてくる気のいい老夫婦だった。
良かった。あのおじいちゃんやおばあちゃんなら、きっとそんなに怒ったりしないだろう。
亘はホッとしたけれど、明と邦子は買い物袋もそっちのけで駆け出して行き、すぐに山田さんの家の呼び鈴を鳴らすと、出てきたおばあちゃんにぺこぺこと頭を下げて平誤りしていた。亘も買い物袋を持ってすぐ追いつくと、同じように頭をぺこぺこ下げて謝った。
亘の予想通り、山田さんはニコニコ笑って、ガラスを弁償してくれればいいですよ。とすぐに許してくれた。
けれどマンションの自分達の部屋に戻る途中、邦子はずっと沈痛な表情をして落ち込みながら、大きなため息ばかりついていた。
明がそれを見て半ば苦笑して、からかうように邦子に言う。
「まったく・・・とんだプロ選手もいたもんだよ」
邦子はそれを聞くと並んで歩いていた明と亘の方を振り返り、キッと睨みつける。
「あら何よ?ちゃんと受けてくれなかったあなたにも責任あるじゃない?」
「あんな大暴投、どうやって受け止めろって言うんだ?」
「取ろうと思えば取れたはずよ!私だって別にわざとあんな風に投げたわけじゃないんだから・・・仕方ないでしょ?」
邦子はプリプリ怒りながら足早になると、さっさと先にマンションの部屋に入っていってしまった。
亘はそれを見ながら呆れたように、でもおかしさを堪えきれずに、クスクス笑いながら思わずすぐ傍にあった明の手を握り締め言った。
「お母さん、逆切れしてる」
「本とだな」
明はそう言うと、亘の手をそっと握り返してきた。亘は自分から思わずした行為とはいえ、小さい頃ならともかく、ここ最近感じていなかったそのぬくもりになんだか急に照れくさい物を感じて、握られたその手を引っ込めそうになった。
けれど明はさっきよりも更に力強く亘の手を握り返すと、ゆっくり亘の方を見て呟いた。
「亘、大切な人が現れたらその手をしっかり握って、離さないようにするんだよ」
え?
丁度日が逆光になっていて、その時の明の表情を亘は見ることが出来なかった。ただその言葉の力強い響きと、自分の手を握る明の手の暖かさがなによりもその時の明の気持ちを表しているようで、亘はなんだか急に胸がいっぱいになった。
「亘にもいつか誰よりも大切な人が現れる。そのときはその人の手をしっかり握って、しっかり守って上げるんだ」
「・・・・うん、わかった」
亘のその言葉を聞いて、明はニッコリと微笑んだようだった。相変わらず逆光の為、亘には明の顔は見えなかった。
「またキャッチボールしような」
「うん、必ずだよ!」
亘は明の手を強く強く握り返しながら、大きな声でこれ以上ないくらい嬉しそうに返事をした。
マンションに入るドアの前、日に照らされた二人の影が長く長く廊下に向かって重なって伸びていた。
────幸福の時間。幸福の時刻(とき)。それはそのとき確かな真実を持って存在していた。
時が流れ、全てが変化を遂げていっても、その時の時刻が無くなる事にはならない。その時の言葉が嘘だった事にはならない。
───確かに確かに、あの日あの時あの時間。
柔らかな黄金色の光が彼らを包んで、侵すことの出来ない幸福な時間を、悠久の時の中のひと時に存在させていた。
笑いあった暖かな時間。柔らかなひと時。包みあった手と手。確かな言葉────きっときっと・・・・
・・・・忘れない。
だからいつかきっと。
大切な大切な自分のたった一人の誰かに出会えたときは、きっときっとその手を───強く握って・・・・離さないでおこう。
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