いつでもいちばん青い空(3月11日水曜日)3月11日水曜日。卒業式まで後少し。
僕がハラリと落ちてきたその白黒写真を見つけたのは、ある意味偶然のいたずらだ。
美鶴が卒業を前に今まで図書室から借り出していた大量の本を、学校に返しに行くって言ったから、じゃあ僕も、と一緒に学校に付いて行った日のことだった。
高校の合格発表がすんじゃったら、中学の3年生なんて卒業式の練習以外自由登校だし、実質することは何も無い。僕も無事美鶴と一緒の高校に合格できて、大喜びしながらも暇を持て余している最中だったから、退屈しのぎにちょうどいいやと一緒に出かけることにしたのだ。
学校に着いた途端、先生方に見つかった美鶴は、受験トップ合格を次々誉めそやされてその場から動けなくなってしまった。
僕が苦笑して本を受け取りながら、先に返しておくからと目配せすると、美鶴は先生方に対してはうんざりした顔を向けながらも、僕にはすまなさそうに片手を上げた。
その大量の本の数に音を上げそうになりながらも、両手で落とさないように必死に抱えながら、図書室に向かっていた僕は、ふとその中の一冊から何か紙みたいのがはみ出ているのに気づいた。
なんだろうと引っ張り出そうとした弾みに、抱えていた本たちはものの見事にばさばさと音を立てて、僕の腕から滑り落ちた。
散らばった本の間を縫うように“それ”は、まるで花びらがふわりと舞うように、僕のすぐ足元の床に落ちてきた。
「あれ・・?」
“それ”は一枚の写真だった。けれど普通の写真じゃない。ほとんど初めて見るといってもいい、カラーでは無いタイプの写真、千葉のおばあちゃんちでなら、何枚か見たことがあるような気がする。──昔の写真は白黒だったんだよって、おばあちゃんが教えてくれた───そう、それと同じ、白黒の写真だった。
僕は散らばった本の間からそれを拾い上げる。そして珍しいあまり、なんだかその白黒写真をまじまじと見てしまった。
「キレイなコ・・・」
僕は気がついたら、そう呟いていた。その写真に写っていたのは、年の頃は僕らとそう変わらなさそうな、制服を着た一人のオンナノコだったのだ。
でも僕らの中学のとは違って、ここら辺では見たことの無い制服を着ている。艶やかな黒髪は後ろに一つに束ねられながらも、風になびいてるのか肩の上にフワリとかかり、黒目がちな瞳はほんのり細められ、見とれるようなキレイな笑顔を作っていた。
モノクロの画面なのに、体全体に太陽いっぱいの光を感じさせるような、輝くような、眩しいような微笑だった。
「美鶴が女の子の写真持ってるなんて・・・」
まだこの写真が美鶴のものと決まった訳でもないのに、なぜだか僕はこの写真が美鶴のものだという確信をもってそう呟いた。
そしてそう確信した瞬間、美鶴に対して意外を通り越して、不可思議で符に落ちない感情が一気に自分の中に湧き上がり、ものすごく嫌な気分になるのを感じた。そしてそんな自分に驚いてしまった。
その写真のオンナノコは両手に筒状にした紙みたいのを握り締めながら笑っている。よく見ると丸まった紙の端にかすかに卒業と書いてるのが読めた。どうやら卒業証書を持ってるようだ。
じゃあ、これは卒業式のときの写真なんだ。
いつのだろう。去年?一昨年?美鶴にそんな卒業した先輩の知り合いなんかいたっけ?
でもそもそも制服が違うんだから、このコはこの学校の生徒じゃないんだ。それに白黒なんだから良くわからないけど、もしかしたらもっと古い時代の写真なのかもしれないし。
確かにそれは少し古びた印象を与えるけれど、でも写っているオンナノコの魅力的な微笑みはカラー写真なんかよりも、より一層際立って印象的で、そこには時間の古さ新しさは関係ない気がした。
そして多分、このコのとても近しい知り合いがこれを写したんだろうけど、その写す方の愛情もデジカメなんかで撮る写真なんかより遥かに深いものがある気がして、そう感じると僕は余計にこの写真から目が離せなくなっていた。
それから僕は───どうしてそんなことしようと思ったか、自分でもわからないんだけど。
そっとその写真を制服の内ポケットに隠すように仕舞い込んでしまったのだ。
「・・・・」
「亘?」
フイに後ろから美鶴の声がして、僕は思わず体を跳ね上げた。
振り返ると先生方の相手をして少し疲れたのか、難しい顔をした美鶴が立っていた。僕は内心ものすごく慌てながらも、早口で美鶴に言い訳を始めた。
「あ、み、み、美鶴。ご、ごめん!本落としちゃってさ。まだ返してないんだ!」
「いや、量が多かったからな。大変だったろ?亘にだけやらせた俺が悪かったんだ。
・・・そんなことより。その・・・俺、ついうっかりして今、気がついたんだけど・・・」
美鶴が珍しく言いよどむ様に、僕に問いかけて来る。僕はなんだか胸がざわつくのを感じながら美鶴の次の言葉を待った。
「その・・・本の中に何か挟んでるのを見なかったか?」
僕は自分でも驚くくらい、心臓がドキンと音を立てたのがわかった。けれど聞きにくそうにしながらも、目だけは真剣味を帯びて問い掛けてきていた美鶴に、僕はなぜだかこう答えてしまった。
「・・・何かって?別に何も無かったと思うけど」
美鶴はその細い睫毛を何度か瞬かせながら、しばらく僕をじっと見詰めてきた。僕は更に胸がどきどきしてきたけれど、何とかそ知らぬ顔を保った。美鶴はふっと視線をはずすと、そのことはそれ以上何も聞かずに散らばっていた本をかき集め始めた。
「・・・そうか。ならいいんだ。ごめん、あとは俺が自分でやるから。亘はどうする?一緒に図書室まで行くか?」
「え?あ、うん・・・いや、僕、久し振りだし、ちょっと教室のぞいてくるかな・・・」
「わかった。じゃあ、玄関で待ち合わせよう」
「うん・・・」
僕は自分の教室に行こうと思いながらも、なぜか制服の上から胸の内ポケットを押さえて、美鶴が図書室に向かう後姿を暫く見ていた。
自分の教室に行くと、今日は他には誰も来なかった様でガラン、としていた。もっとも、もう授業もほとんど無い学校にそうそう用も無く来る奴は滅多に居ないのだろうけど。
教室に入ると僕はすぐ窓の方に行き、窓を開けそこから少し身を乗り出して上を向き、暫くボーッと高く広がる青い空を見ていた。
もう卒業式まで、後本当にわずかというここ最近は、ずっと春らしくて光の満ちた天気のいい日が続いていた。空もだんだんその高さと青さを増していてその空からすぅっと、心地よい風が時折吹いてきて、ああ、本当に春が近づいてきたんだな、と毎日実感する。
僕は内ポケットに仕舞い込んでいた写真を取り出すと、手の中に包んで隠すようにしながらまたそれをジィッと見た。
さっき見たのと変わらない輝くような笑顔のオンナノコがそこに居る。そのコの周りには校庭の木らしきものが何本か写っていて、その後ろにはどこまでも広がる空と散らばる白い雲のかけらが見えた。
モノクロなのでその空の青さは想像するしかないんだけれど、僕はたった今教室の窓から見えている空と、写真のそれを比べながら、この時の空の青さがどんなものだったのだろうかと、想像してみた。
そうしたらなんだかその空は、僕がこれまで見たことの無いくらいの、抜けるような青い青い光彩を放っている気がした。
そんなどこまでも青い空の下で、これ以上ないくらい幸福そうに、まるで光の化身のように笑っているオンナノコ。
まるで空の色までもがこのオンナノコの為に、特別に光り輝いてるような気さえする。
ふいに。
多分、美鶴もこの写真を見ながら僕と同じように、この広い空の色を想像したに違いない、という思いが湧いた。オンナノコが幸福そうに笑っているその後ろに、どこまでも広がっているこの空の色を思い浮かべようとしたに違いないと思った。
どこまでも続いている遥かな天空のブルーの色を、目を閉じて思い描こうとしただろう、と───そう、思った。
なぜだろう。
その考えが浮かんだ途端、僕はこの写真を見つけたときと同じような、不可解で嫌な気持ちがまた自分の全身を浸すのがわかった。
そしてこの写真を、嘘をついて黙って持ってきてしまった罪悪感までが、今更ながら倍になって自分を襲ってきて、僕は写真を素早く内ポケットに仕舞うと、思わず逃げるように教室を後にした。
僕は不安だった受験を乗り越えて、無事美鶴と同じ高校に合格した。美鶴のレベルに合わせた為、正直、ぎりぎりまで無理かもしれないと思っていた本当にものすごく不安な受験だった。
だから合格できて春からもまた美鶴と一緒に居ることが出来る、そう思ったら嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
これからもずっと一緒にいられる。
始めて出遭った小学校の頃から一緒。そして中学校も一緒。
そしてこれからも。この先も。ずっと。きっと。ずっと一緒にいられる。そう思った。
やっぱりそれが当たり前なんだと思った。僕達二人はそれが許されるんだと思った。
二人でいることが当然なことだと思って。僕達は二人でいるのが自然なことなのだと思って。
二人でこれからも同じものを見ていくんだと思って。見続けていくんだと思って。そう思って。
でも。
もしかしたら。
違うのかもしれない。
同じ空の下にいて、同じ空の青い蒼さを見ていても、もしかしたら僕らは全然違うものを見ているのかもしれない。見ていくようになるのかもしれない。
空の青さが毎日違うように。
写真のように時間(とき)をこの瞬間で止めることは出来ないのだから。モノクロにとどめておく事など出来ないのだから。
───ヒトの心はいつまでも同じところに留まってる訳ではないのだから。
むしろ。
気づかないだけでその心は空に漂う雲のようにどんどん変化を遂げているのかもしれない。
だから当然のように思っていたけれど。
美鶴の傍にいるのは僕ではない違う誰かなのかもしれない。そっちが当然なのかもしれない。
───何でそんな事、今まで気づかなかったんだろ・・・?
僕はなんだか重くなった足取りで、美鶴が待ってるだろう玄関にのろのろと向かった。
(ごめん、さっきはなんだかつい、言いそびれちゃったんだけど本に挟んでたのって、この写真の事でしょ?)───そう言ってこの写真を返そう、そう思いながら。でも。
そしたら美鶴はこの写真を見て何て言うんだろう?どんな顔するんだろう。
(───良かった。大事な写真だったんだ)
そう言って僕が見たことも無いくらい幸せそうな笑顔を浮かべたら?
大事って言うのは・・・・その写ってるオンナノコが大事だからって・・・・そう言われたら?
玄関に着くと、美鶴がズボンのポケットに手を突っ込みながら、視線だけ、何かを探しているかのように上に向け、ジッと空を凝視していた。まるでその蒼さを確かめるように。
ツキン。
僕はそれを見て、写真を仕舞っている内ポケットのある胸の部分がハッキリ音を立てて痛んだのがわかった。そしてその痛みが何から来るのか僕には、もうわかった。
僕は美鶴に声もかけずに踵を返すと、一目散にその場から離れた。
今日は3月11日水曜日。
卒業式まで、もう後少し。あと少しのこの日。
───僕は生まれて初めて悲しいような切ないような痛いようなそんな気持ちで頭から足の先まで一杯になって。
・・・・・美鶴に遭ってから自分の胸の中にあって、ずっとずっと隠れていただけのその気持ちに───気づき始めていた。
初めて、自分の中にある確かなその気持ちに───気づき始めていた。
ずっとずっとずっと、胸の一番奥に仕舞われて隠れていただけの・・・この想いに気づいてしまった。
そして気づいてしまったこの想いは。
いま自分の内ポケットに仕舞ったこのモノクロ写真のように、隠していてはダメなものなのだ、と。隠していては苦しいだけのものなのだと。
なんだか涙が溢れそうになって思わず手の甲で目の端をゴシゴシやりながら───僕は・・・思った。
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