「芦川っ!」
飛ばされる寸前に手を伸ばして美鶴の名を叫んだが届かなかった。
近くの岩に亘は激突する。一瞬目が眩んだ。頭を振りながら立ち上がる。美鶴の姿を探したが見当たらない。
「芦川っ!芦川ぁっ!!」声を限りに叫んだ。後ろの方から唸り声が聞こえた。
亘は駆け寄る。絶壁の端につかまっている美鶴がいた。「芦川っ!」絶壁の下は遥か先だ。どれほどの深さなのか想像もつかなかった。亘は手を伸ばす。落ちそうになる寸前まで体を伸ばして必死に美鶴に手を伸ばす。
「バカ・・・早く行け・・・」出っ張っている岩肌にかろうじてつかまりながら美鶴は声を絞り出す。
纏っているロープも服ももうボロボロだった。顔にはあちこち擦り傷がある。
「い・・やだっ!」歯を食いしばって手を伸ばしながら亘は美鶴の手をすくい上げようとする。
「・・・三谷・・どうやら魔法を使えないよう結界を張られた。・・・どうにもできない・・
お前は逃げろ・・・たのむから」悲しそうな声で・・それでも美鶴ははっきり言った。
番人は空中で亘達の姿を探して、うろうろと飛び回っている。
「いやだぁっ!」亘が叫ぶ。魂からの叫びがあるならいまの亘がおそらくそうだろう。
「いやだっ!芦川をおいてくのは・・・絶対、いやだぁっ!それなら僕も一緒に落ちるっ!」
美鶴が顔を歪ませる。「・・バカ!いいかげんにしろっ!」バカ。バカ!・・・なんだって・・・どうしてお前はそんな・・・なんで・・おれなんかのために・・・
パタッ・・・・
美鶴の顔に何かふってきた。暖かい何かが・・・舞い落ちてきた。ああ覚えてる・・あの時もそうだった・・
俺を抱えながら・・・お前、泣いたよな・・・一緒にかえろうって泣いてくれたんだよな
・・・これで何度目になるんだろう・・・お前の泣き顔を見るの・・ヘンだよな・・こんな時なのにこんな事考えるの。
でも俺はいつも思ってた・・・お前の泣き顔ってどうしてこんなに・・・きれいなんだろう・・・
「美鶴・・・」
亘は美鶴を名前で呼んだ。パタパタと涙を流しながら、それでもわずかに微笑んで・・・そして・・・
「美鶴が好き・・・」
その言葉と一緒に美鶴の唇に涙が一滴落ちてきた。
「・・・美鶴が好きだよ。・・・大好きだよ・・・」
ポタ・・・ン・・
美鶴の心の中にその言葉が滴となって流れ込む。立った一滴の雨粒が水面に大きな輪を描くように静かに・・・静かに・・・広がって・・・美鶴の全部を満たしていった・・・
伝えたかった言葉・・・大切な言葉・・・それは何よりもシンプルなたった一言・・・でも何よりも大事な一言。
・・・・美鶴が・・・好き・・・ただそれだけ。ただそれだけの言葉が美鶴の全てを受け止める・・・
「・・・わ、た・・・る」
美鶴が手を伸ばす。亘の方へ手を伸ばす。そして呼んだ。その名を呼んだ。瞳に涙を浮かべてその名を呼んだ。
「亘っ!」
ワタルワタルワタルワタル・・・・わたる!・・・亘っ!
亘の手を取る。その手を掴む。何よりも何よりも掴みたかったその手。何よりも何よりも離したくなかったその手を。
美鶴が亘の手をとったと同時に番人が大鎌を振り下ろして向かってきた。そして二人に鎌が振り下ろされる瞬間・・・・
辺りに光が満ちて・・・亘と美鶴を包み込んだ。
──ワタル・・・・──
優しい声・・・気高い声・・・そして嘗て聞いたことのある声・・・頭の中に直接響くようなその声を亘はぼんやり聞いていた。
どうなったんだろう。どうしちゃったんだろう・・・気が付けば光溢れる中、美鶴と抱き合いながらゆっくりと落下していってるのがわかった。
「女神様・・・?」
──ワタル・・・あなたは・・これからも受け止める事が出来ますか・・・ミツルの全てを・・・決して投げ出すことなく・・・その罪を・・・その傷を・・・共に背負う覚悟はありますか・・・
「・・・はい。・・・はい、あります。」美鶴を抱きしめる手に力をこめて亘ははっきりと答えた。
──ミツル・・・──
美鶴は顔を上げる。出会うことの出来なかった幻界の女神の声を今美鶴は聞いていた。「・・・はい」
──あなたは半身。そしてあなたは罪びと。・・・でもあなたは私でさえ気付かぬうちに半身の戒めを解き、現世に還っていました。
・・・もうひとつの魂に出会うために・・・
優しい声。優しい響きが続いた。
──あなたは守りつづける事が出来ますか・・・もうひとつの魂をこれからもあなたの命に代えて・・・それを約束できますか・・・
「・・・はい。・・・はい、できます。」同じく亘を抱きしめる手に力をこめて美鶴も答えた。
女神が微笑んだような気がした。光に包まれ落ちていきながら二人はそう感じた。
──傷ついた魂を持つ幼い二人の子供たち・・・あなた達に今しばらく時を与えましょう・・・
・・・・今度こそお互いが繋いだその手を決して離すことの・・・・ないように──
目も眩むような輝きが放たれた。手を繋ぎ離れる事のないように抱き合ったまま・・・二人はその輝きに飲まれていった・・・
ゆっくりと目が覚める。ここはどこだろう。ぼんやりとした視界が次第にはっきりと形をなしていく。
目の前に点滴の管が見える。手を上げるとその管は自分の腕につながっていた。
・・・・病院・・・?
ガバッ!
亘は跳ね起きた。白いシーツ。白い枕。亘はベッドの上にいた。「え・・・?」
美鶴?美鶴は?美鶴はどこ?慌てて辺りを見回すとすぐ横のベットに美鶴は寝ていた。
(あ・・・・)
ほっとすると同時に吸い寄せられるように亘は美鶴に近づいた。短い点滴の管が邪魔をする。亘は管を引き抜いた。
「いて・・・」ポツンと自分の手に滲んだ血を口で抑えながらそっと美鶴の寝顔を覗き込む。
美鶴は安らかな寝息を立てている。亘はもう一度ホッと息をついた。
・・・・帰れたんだ・・・一緒に帰って来れたんだ・・・・
(女神様が帰してくれたんだ・・・二人で帰ること・・・許して・・くれたんだ)限りない安堵感が胸に溢れた。
(あれ・・・?)同時に悲しくもないのに涙が溢れてきていた。パタパタパタパタ・・・止らない・・・
手の甲で溢れる涙をぬぐう。ゴシゴシこすってたらその手をふいに掴まれた。美鶴が起きていた。目を開けて微笑んでいた。
今までみた事のない、これ以上ないくらいの笑顔で。亘は目を瞠る。
・・・ああ・・きれい・・こんな、こんなきれいな笑顔・・・僕は今までみた事ない・・・
泣きながら動けなくなっている亘に、美鶴はゆっくり起き上がるとそっと顔を近づけた。亘の片手を優しく握ったままポロポロこぼれている亘の涙をその唇でぬぐっていく。そっと・・・そっと・・壊れ物を扱うように・・・そして亘の額に自分の額をくっつけて優しく亘を抱き寄せる。そして囁いた。誓いの言葉をたてるように。
「ただいま・・・亘・・」
亘の瞳からまた涙が一粒転がり落ちて、美鶴の唇がそれを受け止めた。ああ、何よりも聞きたかった言葉だ。何よりも望んでた言葉だ・・・
やっと・・・やっと、聞けた・・・やっと・・・
「おかえり・・・」
手を伸ばして美鶴の背にその手を回す。そしてギュッと力をこめた。
「おかえり・・美鶴・・・おかえり」
午後の優しい光が窓から差込み二人を包む。
愛しい愛しい宝物をようやく手にする事が出来た子供のように。眠りに落ちる一瞬でさえ手放したくない、そんな大切な大切な宝物を手にした幼子のように。・・・・誰もいない病室で二人はずっとお互いを抱きしめあっていた・・・・
長い・・・長い・・・幻界の旅から・・・・美鶴はやっと・・・
・・・帰ってきた・・・
「一週間も寝たきりだったのよ!」目を真っ赤に腫らしながら美鶴の叔母は叫んだ。側には他に亘の母親もいた。アヤも泣きながら美鶴に抱きついてきた。あの火事のあった日から現世ではちょうど一週間たっていた。次の日。検査を終えてどこにも異常なしが判るとそれぞれの家族が飛んできた。誰から聞いたのか小村や宮原もついてきて二人の無事な姿を見ると小村は泣きながら亘に抱きついてきた。
大丈夫なのか?もう学校これんのか?うん。大丈夫だよ。明日からもう学校にも行っていいって。苦笑しながら亘はこたえる。
落ち着いたアヤが亘の側に来て手を引っ張った。
「亘おにいちゃん。大丈夫?もう平気?」「うん。平気だよ。ごめんね。心配かけたんだね・・・」
アヤは首をフルフル振るとその手を引っ張り、そしてもう片方の手で今度は美鶴の手を掴んだ。顔をあげ二人をまっすぐ見つめて言った。
「もう・・・二人でどこにも行かないでね」
亘と美鶴は顔を見合わせる。アヤちゃん・・・アヤちゃんには・・・わかってたの?・・・
「いつも一緒にいてね」
「うん。行かないよ」「約束ね」
「うん」「ああ」亘と美鶴の声が重なってアヤは花のように微笑んだ。
「亘ー!忘れ物はないの?」
「大丈夫だよーお母さん今日は遅いの?」エプロンをはずしながら朝のあわただしい時間を亘は迎えていた。
「ん~ちょっと遅いかも」「判った。じゃあ夕ご飯作っとくね。いってきまーす!」
気をつけるのよ。という母の声を背に亘は駆け出した。
交差点に近づくと美鶴とアヤの姿が見えた。「おはよー!美鶴!アヤちゃん」「おはよう!亘お兄ちゃん」
「そんなに慌ててくることないだろ。危ないぞ」おはようの挨拶も返さないで美鶴のきつい一言が飛んできた。
亘はムッと膨れた。「小さい子じゃないんだから」「小さい子よりたちが悪い」すました顔で美鶴は言った。
「みつ・・・わぁっ!」
文句をいおうと小走りに近づいたとたん歩道のはみ出たブロックに足をとられて亘は転びそうになった。
美鶴がそれをすばやく支える。「ほらみろ」「・・・うー・・・」顔を赤くして亘は俯く。
「亘」返事を返すまもなく美鶴の手が亘の手を掴んで歩き始めた。全ての指を絡めてぎゅっと握る。
「美鶴・・・」「何?」「みんな見てるよ・・・」「いいだろ別に」
亘はまたうう・・・と唸った。顔が更に赤くなる。
「あー!ずるいずるい!お兄ちゃん。アヤもっ!」
そういって残った方の亘の手をアヤが掴んだ。美鶴が微笑んで言った。
「亘お兄ちゃんは危なっかしいからちゃんと掴んでやるんだぞ」「美鶴っ!」
また文句を言おうとする亘の耳にすばやく顔を近づけて美鶴は言った。
「心配するな。俺も離さないから」離さないから。この手を。もう二度と。そしてまた握る手に力をこめる。
「・・・・うん」思わず亘もうなずいた。
そうだね。離さないよ。僕も決してこの手を。何時までも何時までも。そして美鶴を見て微笑んだ。
どこまでも青い空に無数の雲が風にたゆたいながら流れていく。もうすぐ夏が終わり、季節が変わろうとしていた。
亘と美鶴。美鶴と亘。
二人で共に過ごす時間がいま・・・やっと・・はじまろうとしている。
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