「離せよっ!芦川!待って、芦川っー!」
黒いミツルにまだ捕らえられたまま亘は叫ぶ。美鶴はわき目も振らずに走っていった。
(無駄だよ。)黒いミツルは亘をグイと自分に引き寄せるとその手の中に封じ込める。
「離せっ」両手を突っ張って逃れようとするが黒いミツルはびくともしない。
(どうしてそんなに嫌がるんだ?さっきも言っただろ。俺だってミツルだよ)
「違うっ!お前は芦川じゃない。芦川はこんな風に誰かを傷つけようとなんかしない!」
(本当に?)黒いミツルの目が細められる。
(あいつが幻界でした事はどうなんだ?自分の願いをかなえるために多くの人の命を奪った事はどうなるんだ?)
「そ、れは・・・・」でも・・それは・・・
(アヤの為なんて言い訳にならない。そんなのはお前だってわかってるんだろ?)どんな理由があったにせよ・・・どんな想いを美鶴がもっていたとしても・・・誰かの命を奪っていいはずがない。
(俺はミツルだよ。あいつはオレなんだ。・・・お前だって・・・もう一人の自分がいただろ・・・)
そうだ。幻界で亘はもう一人の黒い自分にあった。亘自身が作り出した黒い影・・・・亘の負の部分の結晶・・・
ソイツは亘を脅し、けしかけ、美鶴と戦わせようとした。
(俺たちは誰の心の中にもいる・・・)ミツルは亘を強く抱きしめた。息も出来ないほど。でもどこか苦しそうに。
「・・・そう、だよ・・・」亘は抗うのをやめ、ゆっくりとしゃべり始めた。
「僕にももう一人の自分がいた。ソイツは僕を脅して・・・騙して・・芦川と戦わせようとしたよ・・」
黒い、黒い自分・・・願いの為なら・・・憎しみの為なら・・・何をしてもいいと思っていた・・・もう一人の自分・・
そうだよ。確かに、確かに黒い自分は存在する。
でも。
「・・・泣いてたよ。」亘はポツリと言った。ミツルが顔を上げる。
「・・僕を脅しながら、けしかけながら・・・ソイツは泣いてたよ・・」
まるで迷子になった子供のように。ひとりぼっちにされた小さな小さな子供のように。
亘はそっと黒いミツルの背に手を伸ばす。黒いミツルが少し震えた。
「・・・・そうだ。きみは美鶴だね。・・・いままでずっと・・・たったひとりでいた・・・美鶴なんだね・・・」
亘が黒いミツルを抱きしめようとした瞬間。ミツルは亘の目の前から掻き消えた。
美鶴がマンションに駆けつけたときにはすでにかなりの火の手が上がっていた。
あんなにもうるさくサイレンが響いているのに消防車はまだ到着していない。
「この先で事故があったらしくて渋滞して消防車がここに来れないんだ!」
誰かがそう叫んでいるのが聞こえた。周りを見渡す。
マンションの住人があちこちに避難しているのが見える。
でもアヤの姿はない。
アヤ!アヤ!アヤ!美鶴は必死にアヤの姿を探す。
「美鶴くん!」管理人さんの声だ。美鶴は振り返る。
「あの子・・・アヤちゃん・・・いるはずなんだ・・・学校から帰ってきて戻ってるのを見てるんだよ・・・でもいま外を探してもどこにもいないんだ・・・」
美鶴はその言葉を聞き、駆け出した。燃え盛るマンションの方へ。
「美鶴くん!」引き止める間もなかった。
パチパチパチ・・・・火の粉がまい散っている。
美鶴たちの部屋は、幸いまだそんなに火の手がすごくはなかった。
だがものすごい熱さと煙でめまいがしてくる。手で口を抑えながら美鶴は奥へ進んだ。
「アヤー!」声を限りに叫んだ。煙を吸い込みむせ返る。
リビングのソファの後ろで何かが動くのが見えた。
「お・・・・に・・ぃ・・ちゃ・・・」
「アヤッ!」煤だらけになり泣いているアヤの側に駆け寄る。
「大丈夫か?」美鶴の問いにアヤはこくんと頷きかえす。美鶴はホッと息をついた。
美鶴はアヤを抱きかかえると慎重に出口に向かった。燃え盛る炎は確実に広がり辺りのものを飲み込んでいる。
耐え切れなくなった天井の木材がミシミシと音を立てて次々と落下していた。下手に動けば間違いなく犠牲になる。
「!!」バキバキッ!熱にやられたリビングボードが美鶴たちの目の前に倒れこむ。道をふさがれた。子供一人通れるだけの穴を残して。
「・・・・・」アヤはすでに気を失っていた。自分で通る事は出来ない。美鶴は唇をかむ。
「芦川っ!」
炎の向こうから声が聞こえた。あの声は・・・
「三谷?」
「芦川っ!」火を掻き分けて穴の中から亘が現れた。必死にこっちに手を伸ばしながら・・・
「バカッ・・・お前・・なんだって・・」美鶴は動揺していた。熱いだけではなく汗が流れた。
「いいから!アヤちゃんをこっちによこして!早く!」亘は早口で言った。美鶴はアヤを抱きかかえて穴に駆け寄った。
亘は穴から必死に手を伸ばしてアヤを受け止める。そして焦りながらも慎重に穴からアヤを引きずり出した。
「向こうに消防士さんがいるんだ。さっき消防車がついたんだ。どんどん火を消してるから心配しないで」
アヤを抱きかかえ、亘は出口に向かいながら美鶴に言った。
「わかった。俺もすぐ行くからアヤを頼む」亘は頷きながらも微妙に瞳を揺らす。
「大丈夫だ。心配するな」その言葉を聞いてすぐに亘はアヤを抱えて走っていった。
美鶴も急いで脱出しようと穴をくぐろうとしたが、アヤが一人やっとくぐれるような大きさなので簡単には行かない。
(待てよ)
背後から声が聞こえた。振り返らなくても美鶴はもうそれが誰なのかわかっていた。
そして自分でも驚くほどに落ち着いた声で尋ねながらゆっくりと声のほうを振り返った。
「・・・・お前がやったのか?・・・・」
炎の中で美鶴と黒いミツルは対峙する。黒いミツルはいつもの不敵な笑いを浮かべずにまっすぐに美鶴を見ていた。
(そうだよ。お前が幻界でやったようにな)
燃え盛る炎。逃げ惑う人々。それを何の感情ももたずにただ見ているだけの自分。
(もうわかってるだろう?)
「ああ・・・」
ヴィジョンといわれる場所の事を全て思い出したわけではない。ただこの事。火の手をあげてたくさんの人々を殺めた事だけは、もうはっきりと美鶴は思い出していたのだ。
「そうだ・・・俺がやった。今のお前のように・・」
苦しそうに美鶴は答えた。あたりの火の手が激しくなる。逃げ道がどんどんふさがれていた。
(お前は三谷とはいられない)
美鶴は黙ってミツルの言う事に耳を傾けた。。
(アヤを救う為とはいえ、こんなにも罪を犯したお前が・・・のほほんと愛するものの側にいる事が・・・・許されるわけないんだ・・・)
(・・・愛、する・・・もの?)美鶴はミツルの言葉を反芻する。
(俺のことを忘れて・・俺だけを取り残して・・・どうしてお前だけが三谷の側にいられるんだ?・・・・)
泣きそうな声・・・まるで捨てられた子供のような声だった。
どうして?・・・・どうして?・・・・・どうして、ぼくだけおいていくの?・・・・
「・・・・・」
黒いミツルの想いが流れ込んできた。そして美鶴の想いとシンクロする。
おとうさん・・・・おかあさん・・・アヤ・・・どこにいったの?・・・・
ぼくだけをおいてどこに行ったの?・・・
芦川を一人にしたくないんだ。ふいに亘の声が頭に響く。
絶対嫌だ。芦川を一人にするなんて絶対・・・・
黒いミツルの目から涙が一筋流れていた。取り残された子供。捨てられた子供。それは全部自分の事だ。
そうだ。お前は俺だ。なによりも一人になる事を本当は恐れている俺自身なんだ。
そのくせ誰をも寄せ付ける事の出来ない臆病な自分自身だ・・・・
(三谷・・・)
でもお前はこう言ってくれたんだ。友達になろう。芦川を一人にしたくないから。いやだ。
芦川を一人にするなんて絶対嫌だよ。・・・・そう言って・・・泣いてくれたんだ・・・俺を抱きしめてくれたんだ。
(お前を三谷の側にはいさせない)
今度ははっきりと憎悪の溢れた目でミツルは美鶴を睨む。
激しい炎があたりを包む。一瞬美鶴は息が出来なくなった。
(お前だけが幸せになるなんて許さない。俺を忘れてそ知らぬ顔で生きていくことは許さない!)
炎がまるで竜のようなって美鶴の周りを取り囲んだ。そしてそのまま美鶴を飲み込もうとした。その刹那。
「芦川っ!」亘が飛び込んできて美鶴に抱きつき炎の竜から美鶴をよけた。
「三谷!」勢いで二人で床に転がりながら美鶴は驚愕の声をあげる。「三谷・・・なんで・・バカ、逃げるんだ!」
体制を立て直し、亘の肩を掴んで美鶴は大声で言った。
「いやだ」こんな状況なのに亘の声は驚くくらいに落ち着いていた。
「いやだじゃないっ!」美鶴が声を荒げる。亘は顔を上げた。そして黒いミツルに向けて言った。手をさし伸ばし・・・
これ以上ないくらい優しい声で。そっと。
「ミツル」
「帰ろう・・・・一緒に帰ろう」微笑みながら。さながら聖母のように。
全ての時間が全ての動きが一瞬とまった。
黒いミツルは目を見開いて固まっている。美鶴はただ亘を見ていた。
・・・・覚えている・・・覚えている・・・
自分は亘のその言葉を覚えてる・・・・
次の瞬間。止っていた時間が加速度で戻ってきた。ものすごい破壊音と共に天井の全てが炎と共に落ちてきた。
「三谷っ!!」
美鶴が亘の頭ごと抱きかかえ、かばって床に倒れこんだ。炎があたりの全てを包み飲み込んでいった。
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