「芦川。怪我してる」
その後例の三人組を先生方に引き渡して亘と美鶴は帰途についていた。
先生方はあれこれ二人に質問をしたがったが、悪いのは向こうです。
僕たちは関係ありませんと強引に振り切って帰ってきた。
「たいした事ない」何でもないように美鶴は言った。
三人組と格闘しているときに、飛び散ったガラスの破片か何かで切ったのだろう。
右手が切れて血が滲んでいた。
「そんな訳ないだろっ!ちゃんと消毒して手当てしなきゃダメだ」
「大丈夫だって言ってるだろ」
「ダメだよっ!ここからなら僕のうちの方が近いから寄ってって!」
亘は強引に美鶴を引っ張って自分のマンションに連れてきた。
「ただいまっ!お母さんいる?」ドアを開けるなり亘は叫んだ。
中から返事はない。亘のは母はまだ仕事から戻っていないようだった。
「まだ帰ってないのか・・・え~と、救急箱たしかこっちだったっけ?」
部屋から部屋へパタパタと亘は走り回る。「あ、芦川そっちの洗面所でまず手を綺麗に洗ってて」
美鶴が手を洗ってリビングに戻るとほどなくして目当ての救急箱を持って現れた。
「そこに座って」目の前にあったソファに美鶴を座らせると亘もその横に座る。
救急箱から消毒薬や包帯を出すと美鶴の手当てをはじめた。
「痛くない?」
消毒薬をつけながら心配そうに亘は聞いた。
「平気だよ。大丈夫だって言ってるのに。お前ってほんとにお人好しだな。」
眉ひとつ動かさずに美鶴は静かに答えた。
美鶴は落ち着いていた。あの三人組と対峙していた時が嘘のように今の美鶴は
穏やかな静けさをたたえていた。まるで同じ人物とは思えないほどに。
亘はあの時放っておいたら本当に美鶴があの三人を切り刻むのではないかと思ったのだ。
それほど美鶴の怒りは大きかったから。そして気が付けば亘は美鶴に抱きついていた。
その美鶴の怒りの大きさがー・・・
・・・・・ー悲しくてーつらくて・・・耐えられなくてー・・・
泣きながら夢中で抱きついて美鶴を止めていた。
美鶴、美鶴、もういいよ・・・
美鶴はつらいんだよね。そうやって誰かが誰かを傷つけてしまうことが。
見ていられないんだよね。
感情の押さえがきかないほど。思わず自分を見失ってしまうほど。
嫌なんだよね・・・
美鶴の父親は不倫した母を刺して殺してしまった。
美鶴はその現場を見たのだ。
美鶴がその時何を思ったかなんて亘には想像もつかない。
ただわかることはひとつ
そんなことは嫌だ。そんなことはつらすぎる。
悲しいー・・・悲しいー・・・きっと胸が張り裂ける・・・
「もう俺にかまうなよ」
不意に美鶴が口を開いた。
「え・・・?」弾かれたように亘は顔を上げた。
「これからだってこんな事があるかもしれないだろ。俺のそばにいると危険だ。
わかっただろ」亘の顔も見ずに美鶴は言った。
「そんなの・・・関係ないよ」手当てを続けながら亘は早口で言った。何故か手が震えてきた。
「それに・・芦川、僕をかばってくれたじゃないか」
「何時もかばいきれるとは限らない」亘はハッとして美鶴を見る。
美鶴が亘をまっすぐ見ていた。その瞳がなんともいえない色をしていた。
痛いような・・・つらいような・・・悲しみのあふれた色。
「あしか・・・」
「俺に近づくのはやめるんだ」瞬きもせず美鶴は続けた。
「俺は・・・一人でいい・・・」
(オレハヒトリデイイ・・・・)
亘の脳裏にまるで映画のワンシーンのようにゆっくりとある場面が浮かびだす。
幻界の運命の塔で・・・・
黒い自分に打ち勝つことが出来ず傷ついたミツル・・・
ミツルを抱きかかえながら、その手をとることの出来なかったワタル・・・
ワタルの涙がミツルの頬を伝う。
そのときのミツルが言った言葉・・・・
(オレハヒトリデイイ・・・)
亘は今度体全体が震えるのを感じた。
どうして?どうしてそんなこと言うんだ?本との本とにそうなの?
一人でいいの?つらくないの?悲しくないの?
手当てした美鶴の手をしっかり握ったまま亘は涙をポロポロこぼした。
「・・・ぃ、やだ。」あふれる涙をぬぐおうともせず亘は言った。
「い、やだ!いやだ!」
「芦川を一人にするなんて、絶対いやだよ!」
ポロポロポロポロ・・・・亘の涙が美鶴の手にも落ちる。
怪我をしていない片方の手を美鶴はそっと伸ばすと・・・自分の手をつかんでいた亘の手の指を一本一本ゆっくりと、引き離し始めた・・・やさしく、やさしく・・・
まるで壊れ物をあつかうように・・・
亘は動けない。一歩でも動いてしまったら、何故か永遠に美鶴を失ってしまいそうな気がして・・・
離れていく美鶴の手をどうすることも出来なかった。
でも嫌だ。こんなの嫌だ。美鶴を一人にしたくない。そばにいたいのに・・・
亘はどうすればいいのかわからなかった。
「三谷」
ああ、こんなときでも美鶴の声はやっぱり綺麗だな。
次の瞬間。
亘は自分に何が起きたのかわからなかった。
美鶴がその腕の中に亘を包み込んでいた。力強いけれど優しく、柔らかく抱きしめていた。
亘の頬に美鶴の柔らかい髪が触れる。美鶴の息遣いをすぐ耳元で感じた。
亘は目を見張る。自分に今何が起きているのかまだ把握することが出来ない。
「三谷・・・」
美鶴は目を瞑り、抱きしめる手に優しく力をこめた。亘の存在を自分の全てで感じとれるように。
こんなに愛しい存在を・・・こんなに大切なものを・・・この手に抱いたのは初めてだと言うように。
「ありがとう」
今まで聞いた美鶴のどんな声より優しい声だった。亘にはわかってしまった。
この言葉は美鶴の別れの言葉だということに。
「芦川・・・」
するりと亘から美鶴は離れると玄関に向かった。
ガチャリ・・・ドアの開く音がする。
ダメだ。ダメだ。止めなきゃダメだ。このまま美鶴から離れちゃダメだ。
そう思うのに体が動かない。
「芦川っ・・・」やっと声を振り絞ったとき美鶴はすでにドアの向こうに消えていた。
バタン・・・
ドアの閉まるその音が・・・亘には美鶴の心を閉ざす音に聞こえた。
亘のマンションを離れた誰もいない路地裏で・・美鶴は一人たたずんでいた。
亘を抱きしめたその手をじっと、見つめていた。
美鶴は気づいてしまった。自分の中には抑えることが出来ない巨大な憎悪が存在することに。
それは何時どんなきっかけで自分から吹き出すかわからない。そう、今日のように。
そんな自分の側に亘がいて良いわけがない。ましてや亘が関わるとよけい自分が抑えられなくなるのだ。
どれほど危険な目にあわせるかわからない。そんなことは考えたくなかった。
そして・・・もうひとつの事実に美鶴は気づいていた。
自分が見るあの夢は・・・おそらく現実にあった事だ。
炎の中逃げ惑うたくさんの人々。・・・それをそうさせたのは・・・おそらく・・自分なのだ。
どんなに身に覚えがなくても、つじつまのあわない夢の中の出来事のようでもあれはきっと自分のやった事なのだという確信にも似た思いが美鶴にはあった。
(三谷・・・)
亘を抱きしめたその両手で美鶴は自分自身を抱きしめた。
感じたぬくもりが、感じた温かさが、少しでも残っているうちに・・・
その翌日から美鶴は亘への無視をしなくなった。むしろ今までの美鶴とは別人のように亘と一見親しげに接するようになった。カッちゃんなどは、何だアイツ割といい奴じゃン。良かったな。亘!とまで言うほどに。
けれど亘は気づいていた。
美鶴が自分をまるで見ていない事に。まるで触れようとしない事に。
仲の良いクラスメイトを演じながら美鶴が自分の心の壁に重い鍵をかけ、決してあけようとしない事に。決して亘を入れようとしなくなった事に・・・・気づいていた。
こんなに近くにいるのに。いつでも話せる距離なのに・・・
誰よりも誰よりも・・・美鶴は遠くへ行ってしまったのだ。
放課後。亘はフラフラと家への道を歩いていた。
今はもう何も考えられなかった。考えたくなかった。
美鶴はもう亘がどんな手段をとっても仲のいいクラスメイト以上の立場を崩そうとしない。
けれど、どうすればいいのかも考えられなかった。
ふと気が付くと三橋神社の前にいた。中をのぞいても美鶴はいなかった。
ああそうか美鶴は今日委員会だって言ってたもんな。
亘は境内の中に入りベンチに腰掛けた。
このベンチだ。
幻界に行く前、美鶴と話をしながらジュースを飲んだのは。
なんだかもう遠い出来事のように感じる。なんだか今の亘にはその事さえ本当にあったことなのかもわからなくなっていた。
空を見上げる。その青さを見つめる。
もう、どうしようもないのか。
このまま終わってしまうのか。
せっかくまた出会えたのに・・・何の意味もなく、お互いがあってもなくてもいいような・・・そんな存在のまま終わってしまうのだろうか。
キ・キーマ・・・ミーナ・・ラウ導師様・・・教えてよ。僕はどうすればいい?・・・
やっぱり美鶴と友達にはなれないの?
幻界の女神様なら答えを知ってるの・・・?
こぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえながら、亘は答えなど帰って来るはずのない問いを投げかける。
亘の周りを神社の木々の枯葉が舞っていた。
ザワザワ・・ザワザワ・・音を立てて、まるで亘を隠すかのように枯葉が舞い散っている。
大風がふいた。
次の瞬間。亘の周りから景色が消えた。
(え?)
ボヤッとした霧のようなものに囲まれあたりが真っ白になる。体が宙に浮いているようにフワフワする。
「冴えない顔をしとるのぅ」
霧の向こうから聞き覚えのある懐かしい声が聞こえた。
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