「三谷!話があるんだっ!」
亘が学校から帰ってきて玄関に入ったとほとんど同時に中に駆け込んで来て宮原は叫んでいた。
そのあまりの勢いといきなりさに亘はすぐに反応できず、目を真ん丸くさせていた。
「み、宮原?!な、なに?どしたの」
目の前で息を切らせている宮原の背中を思わずさすりながら亘は聞いた。
リビングで宮原に紅茶を出して落ち着かせている間に亘は私服に着替えて戻って来た。
宮原は丁度紅茶を飲み終わって息をついているところだった。
「落ち着いた?」
宮原の目の前のソファに腰掛けながら自分の分のカップを手に取って笑いながら亘はいった。
「・・ああ、ごめん。ビックリさせるつもりじゃなかったんだけど・・ちょっといても立ってもいられなくてずっと走って来たから」
照れくさそうにしながらも真剣な宮原の声に亘は手にしていたカップをテーブルにおいて尋ねた。
「どうしたのさ?何かあったの?」
宮原は顔を上げ亘の目をまっすぐ見詰めるとはっきりとした声で聞いた。
「単刀直入に聞くよ。三谷。・・・三谷は芦川の事をどう思ってる?」
「え?・・・」
「俺が聞いてるのは・・・芦川に対して三谷は友達以上の感情があるのかって事だよ」
あまりに意外すぎる問いかけに・・・急すぎる質問に亘はしばらく目を瞬かせていた。
けれど宮原の真剣なまなざしにこれは冗談でも、自分をからかって聞いているのでもないということが良くわかった。
だから問い返した。真剣に。その言葉の意味するところを。おそらくそういう意味だろうとわかってはいたけれど・・・あえて問い返した。
「それは・・恋愛感情って事?」
「・・ちょっと違う気がするけど・・・そう、なるかな・・」
「ないよ」
間髪いれずに返ってきた亘の答えに宮原は予測はしていたが少しため息をついた。
「美鶴だってそうだよ。宮原。・・・僕たちはそんなんじゃ、ない・・」
「うん・・・ごめん。わかってた」
わかっていた。本当は聞くまでもなく亘の答えを、宮原はおそらくそうだろうとわかっていた。
見ていればわかる。亘を知っていればこそよけい。彼が美鶴に対して抱いているのものはどう考えても恋愛感情などではないことを。
けれど。でも。
「でも・・・芦川は違うんだ。・・三谷。・・違うんだ」
宮原のその言葉に亘はゆっくり顔を上げる。そして大きく目を見開いた。
「・・苦しんでるよ。芦川は・・・三谷がいつか自分の傍からいなくなるんじゃないかって・・・おびえて、苦しんで・・だからいっそ抱いてでも自分のものにしたい・・・それが間違ってることでも。・・でもそう思いつめるほど・・・苦しんでるよ・・」
宮原の言葉を一つ一つ噛み締めるように亘は聞いていた。
「こんな話・・本当は三谷にしたなんて芦川が知ったら俺、殺されるだろうな。・・・でも言わずにいられなかったんだ。三谷に伝えなきゃいけない気がどうしても、したんだ」
本来ならこんな話、宮原は赤面せずに話すことなんか出来ない。内容が内容なだけに簡単に話していい事だとも思わない。
でも、・・・けれど・・例え余計なお世話だと言われたとしても・・今、自分が亘に伝えなければならない気がした。
あんな苦しんでる美鶴を・・・あんな置き去りにされた子供のような瞳の芦川を・・・放って・・おけなかったから。
「・・・どうして」
「え?」
「どうして僕が美鶴の傍からいなくなるのさ?・・・どうしてそう思うんだよ。・・・僕は傍にいるって・・・ずっと美鶴の傍にいるって・・・言ってるのに!」
ソファから立ち上がると亘は叫んだ。弾みでテーブルにぶつかり置かれていたカップがガチャリと倒れて中の紅茶がこぼれた。
「何度も何度も言ってるのに!・・・なぜだよ・・どうして・・?・・・美鶴、信じないんだ?・・どうして信じないんだよ!・・」
「三谷・・」
顔を伏せた亘の足元にパタパタと滴が落ちた。
違う。違う。違う。
そうじゃない。美鶴じゃない。
唇を噛み締めながら亘にはわかっていた。
そうだ。信じてないのは自分の方だ。
わかっていた。
・・・心のどこかで・・美鶴のこれからの生き方に目を背けている自分がいた。
美鶴が自分の犯した過ちを背負って生きていく決心をしたことを知って・・・臆している自分を知った。
忘れた振りをしている自分がいることを知った。
だって知らないままにしていた方が・・・忘れたままにしているほうが・・・楽じゃないか。
二人ただ一緒にいて楽しいだけじゃどうしてダメなの?
幻界での出来事なんてどうせこっちの人間は誰も知らないことなんだ。
だったら・・・だったら・・忘れたことにしたって・・・いいじゃないか。無かった事にしたって・・・いいじゃないか。
どうしてダメなんだよ。どうしてダメなんだよ。
そう思ってる自分がいた。
夢に現れた亡者が・・・言ったとおりなのだ。
きっと美鶴はどこかでそれを感じてるのだ。亘が口では傍にいると言いながら全てを美鶴に添わせていないことに・・・きっと、気付いてるのだ。
傍にいる、美鶴の過ちを共に背負うなどと言っておきながらそれを重荷に感じてる自分がいることに。
心のそこから美鶴の行く道を信じてやろうとしていない亘に・・・きっと気付いてるのだ。
美鶴を不安にさせているのは・・・そこまで思いつめさているのは・・・誰でもない・・・自分なのだ。
「・・・辛いんだ。・・美鶴の傍にいるの・・今、辛くて辛くてたまらないんだ」
パタパタと涙を流し、ぶんぶんと首を振りながら亘はいった。
「だから、学校で会う以外・・今、ほとんど口も聞いてない。・・会わないようにしてる・・もう後少しでアメリカ行くってわかってるのに・・傍にいなきゃって思ってるのに・・・いられないんだ」
宮原は辛そうに顔をしかめた。ああ、そうか。そんな事があったんだ。・・・だから芦川、余計辛そうだったんだ・・・
「三谷・・・」
パタパタと流れる滴の音が自分の涙のものなのかテーブルからこぼれ落ちる紅茶のものなのかもう亘にはわからなかった。
美鶴にこれきりにしようといってお互いを抱きあったあの日から・・最後にお互いの心音を確かめ合ったあの日から。
・・・・亡者の現れる夢を見たあの日から・・・亘は美鶴を避けていた。・・美鶴から逃げていた。
怖いんだ怖いんだ怖いんだ。進まなきゃと思いながらも。自分が変わらなれば、と思いながらも。
・・・今までの自分達ではいられなくなると言うことが・・・どうしても、怖かった・・・
「美鶴が・・・そんなに苦しいなら・・そんなに辛いなら・・美鶴の言う通りにすることなんて・・・ちっともかまわない」
ゆっくり再びソファに腰掛けながら亘は静かに言った。宮原が顔を上げる。
「・・でも違うと思う・・そうじゃないと思う。・・そんなことで美鶴の苦しいのなんてきっと変わらないよ」
宮原は大きく頷いた。
「・・俺もそう思う。多分・・違うんだ。・・芦川は何かすりかえてる気がするんだ。だからさっきは言いようが無くてそんな風に聞いたんだけど・・・恋愛感情とは・・きっと違う。友達以上のものなんだけど・・だからなんて言うのかな」
美鶴と話した時と同様うまく伝えることが出来なくて宮原はもどかしい思いをする。
つくづくこんな時自分にもう少し恋愛経験があればなぁと、思ってしまう。
矛盾するけれどヒトの気持と言う意味ではそう言った経験あるなしで表現が違う気がするのだ。
頭の回転のすばやさだけではどうしようも無いことがこの世には確かにあるのだから。
「だから・・その、芦川が・・三谷をだ、抱くとかさ。そういう意味で自分のものにして安心したいって気持は俺もわからなくは無いんだよ。・・・男だし」
真っ赤になりながら宮原は続ける。それを見ながら亘は少し笑った。
「じゃあ・・三谷が女の子なら良かったのかって言うとそれは絶対違う気がするんだ」
亘は頷いた。
「芦川・・俺に言ってた。・・三谷は自分にとって宝物なんだって。いるだけで存在するだけで・・心を暖かいもので満たしてくれる。そんな大事な大事な宝物なんだって・・」
「・・・え・・」
亘は大きく目を見開いた。目の端にまだ少し涙がにじんでいた。その瞳を大きく見開いた。
「でも宝物ってさ。・・それが大事であればあるほど時々見失うだろ?・・失いたくなくて、誰にも取られたく無ければ無いほど・・そんな事にもしなるくらいなら、いっそ自分のこの手でその宝物を壊してしまおうと思いつめてしまうほど・・大事すぎて見失うことがあるだろ?」
宮原は手を組んだり解いたりしながら必死に言葉を探してしゃべり続けている。そしてそうすることでやっと少しずつ少しずつ伝えたいことが形になって来たと言うように懸命に言葉を紡いだ。
「芦川・・・多分・・三谷が大切すぎるんだ。・・大事過ぎるんだよ・・」
ただの友達ではすまないほど。友人と言う言葉では済ませられないほど。・・・大切すぎるんだ・・・
宮原は亘を見た。穏やかな顔で。見ているこちらが心から安心するようなそんな微笑で。そしてそっと尋ねた。
「もう一度聞いていい?・・・三谷にとって芦川ってなに?・・・どう思ってる?」
「・・・僕は・・」
亘はふと幻界から戻るときの女神の言葉を思い出す。もうダメかもしれないと思ったとき。
ならこのまま美鶴と消えてもかまわないと思った時。
・・・あの時自分は・・また美鶴を一人に、一人きりにするくらいなら共に消えてもいいと思ったあの時。
──あなたは共に背負うことが出来ますか?・・・決して投げ出すことなく・・その罪をその傷を受け止めることが出来ますか──
投げ出すことなく・・・投げ出すことなく・・・
そして不意にそれは響く。ゆっくりと頭の中に・・・体全体に・・心の奥に・・魔法の言葉のように。
ただいま・・亘・・
光が差すようにその言葉が亘の全てを満たしていく。亘はゆっくり目を閉じた。その言葉を体中で心のなか全てで反芻した。
「美鶴は・・・」
亘の閉じた瞳から一粒だけ滴が転がり落ちる。頬を伝ってきらりと零れ落ちた。
「・・・生きていくのに必要な相手。・・・僕が生きていくために必要な・・存在」
それを愛していると言っていいのならそう言おう。恋愛や友愛だけが愛ではない筈だ。
・・・僕は美鶴の手を離したくない。例えこの先すぐ傍にいられなくてもつながっている筈のこの手を絶対に離したくない。
あの時確かに掴んだその手を・・・決して決して・・・離したくない。
必要だから。僕に必要だから。
・・・僕に必要なんだ。
宮原は亘を見ながら静かに微笑んでいた。
そして言葉にすることの出来ない二人の思いを・・・二人の感情を・・・二人の存在を・・こう告げた。
思案したわけでも、無理に表現しようとしたわけでもなく・・・その言葉自体にまったくの照れも感じずに。
ただ口からこぼれるままに任せて・・・こう告げた。
「必然の・・愛だね」
二人にとって必要な愛・・必定の愛・・当然の・・・在るべき想い・・・ただそれだけだ。
「・・・三谷、それを芦川に伝えてあげて」立ち上がりながら宮原は優しい声で言った。
「そして芦川の想いも・・・どんな感情であれ、一度全部聞いてあげて欲しいんだ。・・・その上で受け止めるかどうか決めるのは三谷次第だけど・・・多分芦川は聞いてもらえるだけで本当は・・・いいはずだと思う・・」
伝えられなくてその感情をぶつけることが出来なくて・・・それで苦しんでいるはずだから。
「うん・・ありがとう。宮原・・そうする」
涙をぬぐいながら亘はいった。・・本当なら宮原のような存在をこそ親友と言うのだろう。
宮原になら友愛という言葉だってなんの躊躇いも無く使える。傍にいる事だって少しも辛く感じることは無い。
自分と美鶴はそう言った存在から随分遠いところにいるのだと思った。
「早い方がいいと思うよ三谷。芦川、明日出発するんだろう?」
「え?」
弾かれたように亘は顔を上げた。今度は驚きのせいで目を大きく見開いて。
「・・・え?・・俺はそう聞いたんだよ。芦川に・・違うのかい?」だからもう時間が無いと思ってあんなに急いだのだ。
「・・僕は・・」
美鶴に一週間後にアメリカに行くと告げられたのは4日前の話だ。その言葉通りならまだ出発まで3日はあるはずだ。
「!!」
亘は上着も羽織らずに玄関に行くと外に飛び出した。「三谷?!」驚いた宮原が後を追いかける。
まさかまさかまさか・・・亘は美鶴のマンションに向かいながら嫌な予感がした。美鶴は何でも用意周到だ。
いつも先を読んで予測して行動を起こす。自分がこうと決めてしまったらこちらに待たせる余裕を与えない。
亘は宮原に教えた日にちだけは頼むから本当であって欲しいと祈りながら美鶴のマンションのチャイムを鳴らす。
「はい・・・?」
中からかすかに泣いてるような声で返事があった。
「アヤちゃん!?僕だよ!亘だよ!美鶴は?美鶴はまだいるよね!?」
バタンと勢い良くドアが開き中から眼を真っ赤にしたアヤが現れた。「亘お兄ちゃん!!」
「美鶴は?いるよね?まだいるよね?」
亘はアヤの肩を掴みながらほとんど叫んでいた。アヤはいやいやをするように首を振ると涙をポロポロこぼしながら言った。
「・・・お兄ちゃん・・さっき行っちゃった。アヤにも見送りにはきちゃダメって言って・・・だから・・亘お兄ちゃん・・・どうして?・・知らなかったの?亘お兄ちゃんは?って聞いたら今日もう学校で挨拶したからって。
・・・でも、アヤヘンだと思ったの。・・・だってだって・・・」
しゃくりあげながら話すアヤの声を亘は呆然と聞いていた。遅れて駆けつけた宮原が息を切らせながら二人の傍にくる。
「だって・・お兄ちゃんすごく悲しそうだった・・すごくすごく寂しそうだったんだもの!!」
亘はアヤから手を離すと走り出す。おそらく美鶴の向かった方へと走り出す。「三谷!!」後ろから宮原の叫ぶ声が響いた。
亘はただがむしゃらに走った。走って走って・・・そして・・・
「三谷・・・」
ポツンと佇む亘の後ろから追いかけてきた宮原がそっと声をかける。
美鶴のマンションから随分離れた川の土手に亘は一人でいた。「三谷・・」
なんと声をかけていいのか宮原は見当もつかずもう一度亘を呼んだ。そしてそっと手を伸ばしてその肩に触れる。
途端亘の体から力が抜け落ちて後ろを向いたまま、亘は宮原にもたれ掛った。宮原は慌てて両手でその体を支えた。
「・・・っふ・・」
支えている肩が小刻みに震えていた。偲び殺した嗚咽が耳に届いた。
「・・・くっ・・ふっ・・」
かすかにかすかにその声の中にミツルという響きが聞こえるのを、辛そうに寂しそうに宮原はただ黙って長い時間優しく優しく亘を支えながら・・・聞いていた。
亘は自分と美鶴をつなぐ細い細い糸がふっつり切れてしまったのをハッキリと・・・感じていた。
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