薄暗い街頭の下、美鶴は身じろぎもせずただミツルを凝視していた。
ミツルが伏せていた顔を上げ更にぞっとするような冷たい声で続ける。
(なんでオレが現れたのかって顔してるな)
ミツルは薄笑いを浮かべながらゆっくり美鶴に近づくと互いの息がかかりそうな位にまで顔を寄せ耳元で囁いた。
(もうオレはいなくなったと思ってた?もうおまえの中にオレは存在しなくなったと思ってた?・・・・そんなことあるはずないのに)
ミツルは美鶴の首に両手を回すと静かに力を込める。そして静かに耳たぶを食んだ。
美鶴の体が強張り怒気を含ませた声で言った。
「・・・やめろ」
(なんで?これはお前が本当は亘にしたいことだから?・・・そうさ口ではどう言ったってオレにはわかってるよ。だってオレはお前だから。・・・お前が本当は死ぬほど亘にこうしたいんだってこと・・・だれよりもわかってる・・)
「・・?!・・っ!!」
唇に何かがかすった。と、同時に鋭い痛みが走って美鶴は咄嗟にミツルを突き飛ばした。
口を押えながらミツルを見ればミツルはその唇にほんの少し付いていた紅い血を指でぬぐって舐めていた。
そしてハッキリと言い放つ。美鶴の目をそらすことなく言い聞かせるように。
(誰よりも誰よりも亘が欲しい。傍にいてくれればそれで良いなんて、ただのきれい事さ。お前は本当は心のそこでは亘が欲しくて欲しくて堪らないんだ!・・・その手でメチャクチャにしてやりたくて堪らないんだよ!)
「やめろっ!・・違う!」
(違わない。誰よりもオレは知ってる。誰よりもわかってる。・・・お前なんだから!オレなんだから!)
「やめろっ!」
美鶴は叫んだ。思わず耳を塞いで小さな子供のように目をきつく瞑りながら。「やめろ・・・違う、ちがう・・・」
(手に入れろよ・・・)
ミツルは目を細め一転して限りなくやさしい声で言った。
(亘を手に入れろよ・・・言葉だけなんて当てにならない。そんなのは何の保証にもならない。お前だって本当はそう思ってる。だから怖くて堪らない・・・このまま亘を失うんじゃないかと・・本当は怖くて怖くて気が狂いそうなんだから!)
そしてそっと手を伸ばし耳を塞いでいた美鶴の腕をとるとその顔を覗き込む。
(・・ほら、震えてる。亘を失うんじゃないかと考えただけで・・・震えてる・・)
ミツルは美鶴を抱きしめる。小さな子を慰めるようにさっきの冷たさが嘘のように優しく優しく抱きしめる。
(可哀想に。可哀想にな・・・こんなに亘が欲しいのに。・・・欲しくて苦しいのに・・・亘は何も気付いてない・・・亘はお前の想いなんか・・・何にもわかってない・・・)
美鶴の瞳が見開かれる。ミツルの言葉を追うように視線をさまよわせた。
(手に入れろよ・・・亘を・・手に、入れろよ・・)
気が付けば街頭の灯り以外何もない暗闇の中美鶴は一人で立ち尽くしていた。
愛しいヒトよ 遠く離れて
あなたは今 どの空の下
優しい優しい歌声。綺麗な綺麗な歌声。甘やかな海の響きにも似たこの声。
・・・ああ、これは・・この声は・・・ミーナの歌声だ。
幻界で聞いた歌。キ・キーマやミーナたちと共に旅していたときに聞いた歌だ。
とても切なくて悲しい恋の歌。
初めて聞いた時、この歌を歌っているヒトは片思いなのだろうかと思ったんだっけ・・・
それとも遠く遠く離れたお互いを思う歌なのだろうかと思ったんだっけ・・・
風よ 教えておくれ
あのヒトは今どこにいるの
風よ 教えておくれ
あのヒトが見上げる星を
会えないほど遠く隔てた相手を想うというのはどんな気持なのだろう。
傍にいないのになぜそのヒトを想い続けることが出来るのだろう。
それが誰かを想うという事?誰かを愛するという事?
・・・たとえ生きているうちもう2度と会えないかもしれなくても?
(ワタル)
不意にミーナの優しい笑顔が自分に近づいてくる。
(ミーナ)
ミーナは亘の手を取ると嬉しそうに微笑みながら言った。
(元気だった?元気だった?・・・ワタル・・しあわせ?いま、しあわせ?・・・)
亘もミーナの手を握り締めながら答える。
(うん!元気だよ!ミーナも元気?ミーナもしあわせ?今、しあわせ?幻界の皆もみんなみんなしあわせかい?)
(元気よ。幸せよ。当然じゃない!だってワタルが幻界を救ってくれたんだから)
その言葉に亘は不意に涙があふれそうになる。そしてふと気が付けば今、自分は嘗て幻界を旅していた11歳のころの自分に戻っていた。
姿もそのときの勇者見習の姿になっている。
(会えなくたって住む世界が違ったって・・・私はいつもワタルの事、想ってるのよ)
少しせつなそうな声でそれでも少女独特の決して強がっているわけではない、キッパリとした口調でミーナは言った。
(だって傍にいなくたって私がワタルを想う気持に変わりはないもの。ワタルだってそうでしょう?ワタルが私たちを想う気持に変わりはないでしょう?)
私、ではなく私たち、に力を込めた言い方にミーナは自分で少し寂しそうな微笑を浮かべながらも続ける。
(ううん。むしろ会えないからこそいつも想ってるのかもしれない。想うことしか出来ないけれど、だからこそどうかワタルが元気で居ますように。幸福で居ますように・・・って)
ミーナはそっと亘に抱きついてきた。柔らかい柔らかいその手。優しい優しいその手。
ミーナの暖かい手に暖かい抱擁に幻界で何度勇気付けられたことだろう。
あの時結局最後の別れとなってしまった運命の塔の上でミーナは亘の頬にキスをした。
ビックリしたんだ。恥ずかしかったんだ。・・・でもとても嬉しかったんだ。だって女の子にキスされたのなんて初めてだったから。
こんなにお互いを想ってるのだから。幸せを願っているのだから。
その亘の思いを映すヴィジョンの人々が・・・不幸なわけない。
(私はワタルが大好き。大好き大好き大好きよ・・・)
抱きしめる手に力をこめながらミーナは歌うように囁いた。
(いつも私たちはワタルの傍にいる。ワタルを想ってる。忘れないで。忘れないで)
ヒトの幸せを願うということはなんて自分自身にとっても幸せなことなんだろう。
・・・そしてなんて・・・せつないことなんだろう。
でもだからこそヒトは祈る。ヒトは願う。彼のヒトの幸福がどうぞ永久につづきますようにと。きっと。
・・・それは現世も・・幻界も、変わらないのだ。
わたしの歌を あなたへの想いを
どの風に乗せれば 届くのでしょう
亘にはまだわからない。美鶴とのことがこれからの事が自分にとってどのような道を作っていくのか。
でも確かなことはわかっている。守ることだ。自分にとって大切な人たちを。大切な想いを。
ヴィジョンを守ったように。
傍にいなくてももう会えなくてもキ・キーマやミーナは自分の心の中に居る。
それを大事に大事にしていくことだ・・・
(何がっあっても私達がいる事忘れないで。・・・ワタルが幻界で築いたその強い心を忘れないで)
(ミーナ?・・)
ミーナの姿が少しずつぼやけて遠ざかっていった。亘は慌てて手を伸ばしミーナをつかもうとしたがその瞬間ミーナの姿は掻き消えた。
ズサァァァッ・・・そして廻りの光が奪われる。
今まで感じていた暖かさが嘘のようにいきなり全身に氷水を浴びせられたような果てしない寒さを感じた。
(ミツルハツミビト・・・)
背後に気配を感じて亘は振り返る。
そこには黒い死に装束を身に纏い、抜け落ちたとしか思えない両の目の穴をそれでもぎらぎらと光らせ不気味に佇んでる者がいた。
・・・・それはどうみて亡者だった・・
(ミツルハオオクノモノヲアヤメタ、ツミビトダ・・・)
ズルッ・・・ズルッ・・・亡者は片足しかないその足で亘の方へ歩を進めてきた。亘は眼を見開いたまま動けないでいた。
(ユルサレナイ・・・ツミビトガユルサレルコトハナイ・・・)
「は、なせ・・・」
亘は自分の方に手を伸ばして来た亡者に言った。そしてその手を払おうとした。けれど気持ちとは裏腹に体は動かない。
(ワスレヨウトシテモムダダ・・・ナカッタコトニナンカデキハシナイ・・ツミガキエルコトハ・・ナイ)
「そんな事・・・わかってるっ・・・」
忘れてなんかいない。消してしまおうなんて思ったりしていない。美鶴はそんな事思ってない。
だから、だから・・・美鶴は進むべき道を決めたんじゃないか。罪をあがなう為に進み始めたんじゃないか。
亡者は亘を見て全てをわかってるとでもいいたげに抜け落ちた穴だけの瞳で静かに笑った。
(ワスレヨウトシテルノハ・・・オマエ・・)
その言葉に亘はまるで氷神に息を吹きかけられたかのように凍りついた。
(ナカッタコトニシヨウトシテイルノハ・・オマエ。・・・ミツルノツミカラメヲソムケテルノハ・・・オマエダ・・)
闇が亘を襲う。頭がくらくらして何も考えられなくなる。足元の感覚がなくなりまるで地面がいきなり崩れ落ちたかのように
自分が深い深い闇の底に飲み込まれていくのがわかった。
(ワスレヨウトシテルノハ・・・オマエ・・)
(オマエダオマエダオマエダ・・・・)亡者の声が木霊のように途切れることなく遠く響いていた。
風よ 教えておくれ
あのヒトは今どこにいるの
風よ 教えておくれ
あのヒトが見上げる星を
この耳を白い貝にして
夜明けまで 待っているから
そして同時に亘の頭の中でミーナの優しい歌声が・・その歌声だけが今の亘の唯一確かなものであるかのように・・・静かに静かに繰り返されていた。
翌朝、亘はびっしょりと汗をかき目が覚めて全てが夢だったことを知った。
ミーナの歌声も・・・闇の亡者たちも・・・
全ては現実ではなかったことを。
そう。只ひとつ。
・・・自分の心の奥底の真実に気付いた事以外は。
亘が美鶴から高校を休学して一週間後にアメリカに立つことを告げられたのはその夢を見た日のことだった。
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