ミズタマリに映るソラ
雨が上がった後には鏡のような水溜りが出来る。
そこには雨が上がった後の晴れた空が映る。
たくさんの涙を流してスッキリしたかのような晴れやかな雲が映る。
──この世界にいる自分とは違う、もう一人の自分が映る。
その日は朝から雨が降っていた。
昼近くに止んだその雨はけっこうな量だったらしく、道のあちこちに小さいのや、大きい水溜りを作っていた。
その水溜りを注意深くよけながら、亘は俯きながら、傘を片手にゆっくりした足取りで歩いていた。
亘はいま、医療系の短大に通っていて、作業療法士の資格をとるための勉強をしている。
先週からある施設に実習生として通っていて今はそこからの帰りだった。
その施設は身体に何らかの障害をもつ子供が通う通園施設で、子供たちのリハビリもしている。
亘はその中の幾人かの子供のリハビリを、担当していた。
リハビリと言っても本格的なことをさせて貰える訳ではないし、何せ相手は子供なので実習に来ていると言っても、やっていることはほとんど保育士のようなものだった。
はしゃぎまわリ、リハビリそっちのけで遊びたがる子供たちを相手に亘は、四苦八苦の日々を送っていた。
そしてその中でも亘に一際懐いている少年が一人いた。
・・・・・・名前を「ミツル」という少年だった。
「苗字で呼ばないで、『ミツル』でいいって言ってるじゃん!!」
その少年は口を尖らせて亘に文句を言った。亘は何度も言われたその言葉に、困ったような笑顔を浮かべてあいまいな返事をする。
「あ、うん・・・ごめん」
「本とに三谷センセってボーッとしてるよね?言ってる事すぐ忘れちゃうの?」
「そういう訳じゃないよ。ゴメンゴメン。さ、続けよう」
そう言いながらも亘はその少年の名を努めて呼ばないようにする。
亘は始めてその少年と会いその名を聞いた時、知らず知らずのうちに自分の手が震えているのに気づいた。久しく聞くことも呼ぶ事もなかったその名の響きに、心臓が音を立てたのがわかった。
いくらその名の字が同じではなくても。その少年の容姿は似ても似つかないものだったとしても。
──自分にとって特別な存在である『彼』と同じ響きを持つその名を。
もう、絶えて久しく呼ぶ事のなかったその名を『彼』以外の人物で呼ぶ気には・・・・どうしてもなれないでいた。
ガタン!!
生まれつき両足に麻痺を持つその少年は杖(クラッチ)を使って歩行する訓練をしていた。
けれどもう、この一ヶ月ほどずっと、何歩か歩いては倒れてしまうと言う状況が続いていた。
亘は少年を助け起こしながら、肩を支えて励ました。
「がんばれ。後ちょっとで5歩も歩けるよ」
少年はクラッチを握り締め、しばらく無言でいたがいきなりそれを放り投げて、亘の方を向くと睨みながら叫んだ。
「もう、やめる!!もう、やだっ!」
両の目から涙を溢れさせながら、少年は続けた。
「5歩くらい歩けたからってなんなのさ?!車椅子の方がいい!もうこんな訓練なんか止める。やったって仕様がないもん!どうせ出来ないもん!」
「そんなことないよ。以前に比べると歩くのだって速くなって、安定してきてるし。出来るんだからやれるんだから、途中で投げ出したりしたらもったいないじゃないか?もうちょっとだから、頑張ってみよう?
ボクがずっと傍にいるから」
少年はその言葉を聞くと大きく両目を見開きながら、亘に向かって叩きつけるような大きな声で言った。
「ウソツキ!!実習終わったらいなくなっちゃうくせに!ずっと傍になんかいてくれないくせに!」
「ミツル!!」
亘は思わず叫んでいた。叫んだ後にハッとして自分の口を抑える。
胸がズキズキと痛んで、体が震えて来た。
震えながらも何とか少年の方に向き直ると、少年はポロポロと涙を流しながらしゃくりあげていた。
「・・・行かないで・・一人に、しないで」
───イカナイデ。
───ヒトリニシナイデ。
ワタル、ワタル、ワタル・・・・・ソバニイテ。ソバニイテ。・・・・離れないで。
ふと目の前の少年の顔に、もう一人の幼い少年の泣き顔が被る。
寂しそうな寂しそうな幼い顔。悲しそうな悲しそうな幼い顔。
帰るべき場所を見失った幼い迷子の顔。
「・・・・・・・みつ、る」
「三谷くん。どうしたの?!顔が真っ青よ?」
振り返るとそこには、亘の実習を担当している年配の女性の作業療法士がいた。
亘と少年を交互に見比べながら、少年の方に駆けより肩に手を当てながら、慌てた声を出している。
「どうしたの?具合が悪くなったの?ミツルくんは・・・・倒れただけ?そう、よかった。大丈夫なのね?
・・・・三谷くん、あなたは立ってるのもやっとそうよ?大丈夫なの?
実習の疲れが出たのかもしれないわね。どっちにしても今日はそんな状態じゃどうにもならないからもう、帰りなさい」
女性の言葉を聞いて、亘は大丈夫ですと声を絞り出そうとしたが言葉にならなかった。
まだ震える体をやっと抑えながら、かすかに頷いて逃げるようにその場を後にした。
「三谷先生!!」
後ろから少年の声が追ってきたけれど亘は振り返らなかった。
気がつけば亘は三橋神社の傍まできていた。
家に帰るには、まだまだ早すぎる時間だった。亘はいったん通り過ぎようとした三橋神社の鳥居に向かうと、ゆっくりとした足取りで境内の中へ入っていった。
少し歩いたところには、見慣れたベンチがあった。嘗てはよく使っていたベンチがあった。
以前に比べればもうずい分と、くたびれてきていたそのベンチに亘はそっと腰掛ける。
腰掛けた目の前の地面には小さな水溜りがあった。足がそれにつからない様、ずらしながら亘は何となく、その水溜りに映る自分の顔とその後ろの空を見ていた。
・・・・・明日、ちゃんと実習にいけるだろうか。
・・・・・少年の顔をまともに見ることが出来るだろうか。
亘は顔を伏せると、唇を噛みながら持っていた傘の先をパシャンと水溜りに放り込む。
水面が波立って映っていた景色と自分の顔が揺れて、乱れる。
水面が落ち着きを取り戻し、再び鏡のように亘を映してその画像をなした時、亘は水面に映る自分の背後に今度は青い空以外のものを見た。
─── 一人の少年の顔を見た。
(シケた顔だな)
そこに映った人物の姿に亘は思わず自分の後ろを振り返る。
けれどそこには誰の姿もなく、亘はもう一度素早く足元の水面を覗き込んだ。
その水溜りの小さな世界にその少年は確かに存在して映っていた。
亘のすぐ横にたって、薄い笑いを浮かべていた。
「みつ・・・」
(そこじゃ、話づらいな。こっちに来い)
亘が驚愕する間もなく、その小さな水の固まりは高いしぶきとなって亘を覆った。
亘は咄嗟に目を瞑り、息を止める。
大量の水が自分にかかってくるものと思った亘は、ほんの一粒の雫さえ降りかかってこない事に気づいて恐る恐る目を開けた。
蒼く蒼く澄んだ透明な世界に自分はいた。
コポコポというような、水の流れる音がどこか遠くから響いていて、廻りにはたくさんの空気の泡が飛んでいる。
まるで生き物のように飛び交う泡の間に、その人物は立っていた。
「ミツル・・・・」
黒いマントを羽織って、宝玉の付いた杖を持った魔道士の格好をして、11歳の少年の姿で彼はいた。
──『彼』よりもわずかに影の色を帯びた姿で。
亘を見て、かすかに口の端を上げて笑って立っていた。
(オレだってよくすぐわかったな)
(・・・わかるよ)
真っ直ぐ黒いミツルを見ながら亘は心の中で答えながら、少し泣きそうな顔でかすかに微笑んだ。
ミツルもまた、言葉を音に乗せてはいなかった。互いにそれで話が通じるのがわかっていたから、二人とも口は閉じていた。
亘はゆっくりとミツルに近づくと、しゃがみながら目線を合わせた。そしてそっと両手を背中に回すと優しく、ミツルを抱きしめながら言った。
(・・・会いたかった)
(オレにか?美鶴にか?)
(美鶴に。ミツルに。・・・・・二人でひとつのキミに。だってキミたちはもう別々じゃないんだろ?)
亘のその言葉にミツルは目を細めると静かに微笑んだ。
頬にかかる亘の髪の毛に愛しそうに唇を寄せて、そのぬくもりを確かめた。
(元気なのかい?)
(毎日クタクタだな。冥王の仕事も楽じゃない)
(そうなんだ)
かすかに目尻に涙を浮かべながら、亘は苦笑した。そして少し寂しそうな顔をしながらミツルに問い掛けた。
(これは夢なんだろ?・・・そうでなきゃ人柱になったミツルに会えるわけないもんね)
(さあ、どうなんだろうな。でも、そんな事はどうでもいいことだろ)
(そうだよ。どうでもいいことだよ。会いたいな、と思ったら会えたんだもん。それでいいじゃん)
自分の真後ろから聞こえて来たその声に亘とミツルは同時にその声のほうを向いた。
両手を後ろで組みながら、ものすごくのんきな雰囲気を漂わせてソイツはこっちを見ていた。
ミツルと同じように幻界にいた時と同じ姿。11歳の少年の姿をして。
(元気そうだな。亘のダブル。いつからいた?)
ミツルが亘から離れると、面白そうに杖の先を黒いワタルに向けながら聞いた。
(何、寝ぼけた事いってんのさ?ボクは亘のダブルなんだから、いつだって一緒にいるに決まってるじゃん!)
拗ねたような顔をしながらワタルは素早くミツルに近づくと、その杖を片手で抑えながら言った。
(お前こそどういうつもりだよ?美鶴から勝手に抜け出してこんなとこまで来ていいのかよ?
言っとくけどね。亘を惑わすつもりなら無駄だからね。ボクはお前がなんか企んでたって、絶対ひっかかったりなんかしないからな!)
(お前、言ってる事が矛盾してるな。さっき自分でも言ってただろう?オレに会いたかったって。
だから、会えたんじゃないのか?お前も俺に会いたかったんだろ?亘のダブルなんだから。違うのか?素直にいえよ)
(な、何言ってんだよ!ち、違うよ!)
真っ赤になって首をフルフルと横に振るワタルに、意地悪そうな笑みを浮かべながらミツルは続けた。
(違わないだろ?ワタルは亘だろ?オレが美鶴であるように。美鶴がオレであるように)
ミツルのその言葉に亘はハッとしたように顔を上げる。
少しだけ胸がざわつくのを感じながら、ミツルの顔をじっと見た。
(二人で一人じゃない。・・・・もともとオレは俺だ)
そう。
そうだ。
そうだよ。
もし二人だったと言うのなら、それはただ片方が抑えきれない感情を、抱えきれない感情をその姿に現してしまったただけのことだ。
元々が自分の中にあったものを。でも目をそらしてしまった自分自身を。
・・・・ただ、見ようとしていなかっただけのことだ。
美鶴は半身になる時にそんな自分自身をも受けとめた。その手の中に抱きしめた。
迷子だった幼い自分自身を・・・・呼び戻していたんだ。
(名前なんて、残ってみればただの音にしか過ぎない・・・)
ワタルが抑えていた杖をその手からそっと引き離し、美鶴は柔らかな声で告げた。
(オレの罪は消えない。美鶴の罪は消えない。でも暗闇でもう迷子になってる幼子はいない・・・・)
ワタルが静かに亘の横に戻ってきて佇んだ。その肩にそっと頭を寄せて、ほんの少しだけ目を潤ませていた。
(千年の時をオレは罪の贖いとして、冥王の責を果たしていく。・・・でも、そこにもう悲しい顔をした子供はいない。お前が最後に抱きしめてくれた時、オレは還るべき場所に還ったから。
オレは──美鶴は知ってる。還るべき場所を。千年のときの先に大切な者が待っていてくれる事を・・知ってる。わかってるから・・・)
「・・・うん」
亘は声に出して返事を返していた。
その瞳から一筋の涙を流して、小さく頷いていた。
ずっと思っていた。僕はずっと不安だった。
美鶴は・・・・美鶴は消えるときに微笑んでいたけれど、キミはどうだったのだろうって。
いつもいつも泣いていた、小さな小さな幼いキミは還る事が出来たのだろうかと。
暗い暗い闇の中でずっとずっと一人でいたキミは・・・
美鶴の憎しみや傲慢や悲しみを一人で背負ってしまったキミは・・・
たった一人でどこかに彷徨ってはいないかと・・・不安だったんだ。
亘のダブルが涙の流れる亘の頬にそっと手をやり、小さな顔を近づけてその唇でそっと涙をなめた。
(しょっぱ!!全くいまだに甘ちゃんだな。あんな奴の言葉になんか泣くなよ!思うつぼだろ!)
そう言って笑いながら、人差し指をおどけるように亘のホッペに当てて言った。
(アイツ等のことなら、時々僕が様子見にいってやるから心配しなくていいよ。
冥王たってどうせたいした仕事なんか無いんだ。暇にしてるに決まってるんだから)
(ご挨拶だな)
(ほんとの事だろ!)
ミツルはため息をつくと杖を振る。辺りの景色が揺らめいてきた。
そして亘の方を見るとほんの少しだけ微笑みながら、ポツリと声に出した。
「オレは・・・美鶴は──いつでもお前を見てる・・」
その笑顔が美鶴とミツルの二人で重なり、ひとつの大輪の華のような笑顔になる。
亘は眩しそうにそのきれいな笑顔を見返した。そして自分もまた微笑んだ。
──ああ。・・・還ったんだね。間違いなくキミは還るべき場所に還って今、そこにいるんだね。
・・・・そうなんだね。
「千年後にな」
またポツリと言った美鶴に亘は力強く頷きながらハッキリと言った。
「うん・・・千年後に。ミツル・・・美鶴・・」
蒼い蒼い透明な水が亘を包む。亘のダブルがそっと自分の背中に寄り添ってきて、そして自分の中に溶けていくのを感じながら、亘もまた降りかかってくる柔らかな水の中にその身を委ねた。
──そうだね。キミもいつだって僕の傍にいる。僕の中にいる。
全てが溶けて消えてゆく中で亘は最後までミツルが微笑んでいるのを見ていた。
パシャン!!
気がつくと亘は目の前の水溜りに足を踏み入れていた。
水面が弾けて、写していた景色が滴となって飛散した。
足を除けて水面が落ち着いていくのを亘は見ながら、自分がもともと座っていたベンチに腰掛けている事に気づいた。
水面が落ち着いて、再びそれを見ている亘の姿とどこまでも青く広がる空を穏やかに映し出していた。
亘は水面に映る自分にそっと微笑みかけると、大きく両手を伸ばして顔を上げた。
───明日からあの少年の事を「ミツル」と、呼び捨てにしよう。そう、思いながら。
想いは悠久の時を超える。
水面に映る自分の姿のように、もう一人の自分は常に自分の傍にいる。自分の中にいる。
違う世界に存していたとしても、帰るべき道筋を、帰るべき場所を知ってさえいれば。
・・・・そしていつでも受け入れる温かな想いがあれば。
いつも、いつでも還って来れる。
だから僕も時々帰ろう。時々想おう。キミ達のいる場所にキミのいる場所にこの想いだけでも。
───届けよう。
久しく呼ぶことの無かったその名を口の中で何度も呟きながら、亘は立ち上がると真っ直ぐ歩いていった。
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