ゆきやどり
不意に降って来た。
朝から肌を刺すような寒さで、これはもう夜には雪になるだろうという空模様ではあった。
それでも遠くの図書館に久しぶりに二人で行って、帰ってくるくらいまでは大丈夫だろうと思った。
でもどうやら今日の雪の女神は相当、気まぐれやだったらしい。
はたまた独身貴族を気取りながらも、仲睦まじい恋人同士を見ると意地悪をしたくなる性質の可愛らしい女神だったのか。
その真白で冷たい綿雪は、美鶴と亘が駅に向かう途中でしんしんと突然舞い降りて来た。
「わ・・・降って来た」
首に少し大きめのマフラーを巻いているだけで、これといって何の防寒もしてこなかった二人は舞い散る雪に思わず身を竦める。
「予報より早いな」
白い息を吐いて、空を見上げながら美鶴が呟いた。
目的の駅まではまだかなりの道程がある。歩いて歩けない量の雪ではないが、帽子もなくフードも付いていないジャンパーを着ている二人には、正直きつい。
しかも二人はわざわざ駅まで行くのに、そこに向かうバスが通る道からは外れて歩いていたりしているので、途中からバスに乗ることも出来ない。
「仕方ないね」
亘はそう言うと自分の手にハーハーと白い息を吹きかけながら、苦笑いをして呟いた。
「途中、雪を避けながらゆっくり行こうよ。急ぐ事もないんだし」
「でも急がなきゃ寒いだろ」
「あ、そうか」
「大体この先に雪を避けられるような場所も無いだろ」
二人で外を歩く時、亘と美鶴はどちらともなく無意識のまま、二人だけの時間をゆっくりと過ごせるようにいつのまにか人気の少ない静かな道を選んで歩くようになっていた。
それは必然的に立ち寄れるカフェや店もほとんどない道、という事で。
「うーん・・・困ったね」
「どのみち立ち止まってたって寒いだけだ。歩こう」
亘の手を掴み握ると、美鶴はそのまま自分のジャンパーのポケットの中に入れる。そしてもう片方の自分の手は反対側のポケットに突っ込んだ。
亘は少し照れくさそうにしながら、自分も同じようにする。
こうしていれば少なくとも手は冷たくない。繋げている方の手はむしろ熱いくらいだった。
出会った頃の小学生の頃から、二人はいつの間にか寒い日にはこうしていた。そして今、二人が高校生になってもそれは変わらない。
「でも、なんかさ。雪って見てるだけなら暖かいような感じがするよね」
「・・・そうか?」
「うん。こういうフワフワした綿雪なんか、特にさ。一面に降り積もったとこに寝転がったらすごく気持ちよさそう」
「・・・凍死するぞ」
「・・・美鶴って、ほんとにリアリズムだよね・・」
亘が少し、怒ったような声で向こうを向いた。
その後も雪は静かに降りつづけ、一向に衰える気配は無い。
自分たちに降りかかかる雪を途中途中、ほろいながらも相変わらず限無く上空から舞って来る雪にさすがに音を上げたくなって来た時。
「あそこでちょっと休もう」
美鶴が亘の頭に積もった雪をほろってやりながら、道の先を指差した。
おそらくかなり前に使われなくなったのだろう。
その現代にそぐわない、緑色に塗られたいかにも取り合えあず、と言った感じの屋根が取り付けられている小さな元バス停が雪の降り続く中にポツンと見えた。
「え・・?ここ?外とたいして変わらないじゃん」
「屋根があって雪が少し、しのげるだけマシだろ?」
美鶴はそう言って亘をそこに引っ張っていく。中には二人やっと掛けられるだろうかというベンチが一応あった。美鶴は亘をそこに腰掛けさせると、肩に掛けていたディバッグから少し大きめのハンカチを取り出して亘の頭をごしごし拭いた。
あまり丁寧とは言いがたい美鶴のその行為に、亘は小さく悲鳴を上げながら問い掛ける。
「・・・美鶴っていっつもずい分、大きなハンカチを持って歩いてるよね?」
「・・・アヤに持たされるんだ」
「へぇ?」
「何でも大きいいほうが好きらしい。ポーチも財布もペンケースも、大きい方が便利でいいって」
「女の子はそうかもしれないね」
「ハンカチも大きい方が使い道あるからって、お兄ちゃんもそうしろって・・・渡されるんだ」
少しだけ決まり悪そうにそう言う美鶴に、亘はちょっとだけ吹きだした。
どうりで高校生男子が持つにしては(と、いうか昨今の高校生男子がそもそもハンカチなど持ち歩いているのか疑問だが)妙に可愛いデザインのハンカチが多いと思った。
内心、困っているにしても最愛の妹から渡されるハンカチを、美鶴も無碍に断る事は出来ないのだろう。
「ホラ、美鶴も」
亘は自分を拭いてくれていた美鶴の手からハンカチを取り上げると、今度は美鶴の頭をごしごしとやった。亘より柔らかくて猫っ毛で細いその髪は、濡れていると自分よりもはるかに寒そうに見える。
「・・・濡れちゃったね。寒くない?」
「俺はそうでもない。亘こそ大丈夫か?」
「・・・うん。意外に平気。まぁ、あったかいココアでも飲みたいのは事実だけどさ」
「ココアか・・・。相変わらずお子様だな」
「ほっとけよ!どうせ美鶴ならブラックコーヒーがいいとか言うんだろうけど!」
「いまは生姜湯のほうがいい」
「・・・・ジジくさ?!」
軽口を叩きあいながら、二人はベンチに腰掛けて空を見あげた。
雪は相変わらず、音も無く降り続いている。
───しんしんしんしん・・・・しんしんしんしん・・・
この雪が降る音をあらわす言葉は誰が考えたのだろう・・・・
静寂の音。音の無い音。銀色の粉が無音で舞い散る様を伝える音霊。
無言で舞い散る雪を見上げていると、この情景も時も全てが静止している錯覚にとらわれる。
自分たちが本当に今、ここにいるのかさえもわからなくなる。
「雨宿りならぬ・・・雪宿り、だね」
不意に真横から聞こえて来た亘の声に、美鶴は一瞬だけ目を瞬いた。
またいつの間にか繋いでポケットに入れていた手から、自分の方に急速にお互いのぬくもりが伝わってくるのを感じた。
「・・・亘」
「なに?」
「・・・何でもない」
「・・・何さ?」
「呼びたかっただけだ」
「?・・変なの」
「だって、今ここには亘しかいないからな」
「え?」
「呼びかけれる相手が亘だけだろ?」
「・・・そうだけど」
「だから、何となく呼びたくなった」
「・・・美鶴、何、言ってるかよくわかんないよ・・」
その後も二人はしばらく、無言で舞い散る白い雪を見ていた。
時を止めた静寂の風景を見ていた。
気がつけば、亘はその頭をもたらせるように美鶴の肩に寄りかかっていた。美鶴もそのぬくもりに寄り添うように少し、頭を傾けて亘に寄りかかる。
ポケットに入れた手は繋いだまま、お互いの体をほんの少し触れ合わせて。
二人はずい分と長い間そうしていた。
「美鶴・・」
「何?」
「呼んだだけ」
「・・・・・亘」
「何?」
「・・・呼んだだけだ」
クスリと亘が体を揺らして笑ったのがわかる。
あまりに静かに二人で寄り添っていたのでその時美鶴は亘が体を揺らした事ではじめて、お互いのぬくもりが元々は別々だった事に気づいた。
───お互いがそれぞれ一人ずつだった事を思い出す。
美鶴はポケットの中の亘の手を少しだけ強く握り締めた。
亘もそっと握り返す。
「・・・寒いね」
「・・・寒いな」
そう言いながらもまだ動こうとしない二人の影法師が、何時の間にかバス停の中にあった灯がついた事で照らされて、くっきりのその色を自分たちの足元に濃く落としていた。
いつまでもいつまでも離れずに。
いつまでもいつまでも寄り添って。
繋いでいた手をそっと美鶴は解くと、亘の肩に回した。少しだけ動いた事によって吐き出された白い吐息が甘いため息のようにお互いの耳に届いた。
美鶴は何も言わない。
亘も何も言わない。
今この世界は誰も何も言わない。
二人の足元の影法師が音も無く、静かにひとつに重なっていくのを多分、今日の舞い散る白い雪だけが黙って、黙って───・・・包み込む。
「駅についたら・・・なんか暖かい物が飲みたいなぁ・・」
「ココアなら自販機にあるだろ」
「生姜湯は無いだろうね」
すっかり日が落ちてから、ようやく雪は止んだ。
美鶴と亘は足元の積もった雪で足を滑らせないよう慎重に駅に向かって歩いていた。
もう手は繋いでいなかった。
お互いがお互いのジャンパーのポケットにそれぞれの手を入れ、歩いている。
多分。寒かったから。手を繋いだ。
多分寒かったから。寄り添った。
───多分・・・寒かったから・・・・
「亘」
「うん?」
「呼んだだけだ」
亘が肩をすくめてクスリと笑う。
もう目的の駅はすぐそこだった。先ほどの静寂と対を成す喧騒の世界がそこにある。
真白い雪が生み出していた音の無い世界はもうなかった。
美鶴と亘はゆっくり、ゆっくり・・・・駅に向かって歩いていった。
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